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ライゾマティクス_マルティプレックス

長尾優希


展覧会名:ライゾマティクス_マルティプレックス

会場:東京都現代美術館

会期:2021年3月20日~6月22日


 ドイツの文学・メディア論研究者のフリードリヒ・キットラーはコンピュータをめぐって暗い調子の論を残している。曰く、コンピュータを含むニューメディアは0と1のみで構成される2進法のコードが支配しているという点である。スクリーンに映る文字や映像は、すべてハードウェアのレヴェルにおいて数字で構成されたものの表出に過ぎない。その本質的な部分は人間の見えないところで進行しているのだ。こうしたある種の技術決定論から、プログラミング言語を操る一部の専門家を除けば、コンピュータは本質的に理解不能なものとなる。キットラーはここに、マイクロソフトなどのIT企業(執筆された1993年当時GoogleやFacebookは設立もされていない)による知識・技術の寡占を看てとり、こうした権力へ注意を促すのだ*¹。

 ライゾマティクスはこれまで、そうした私たちエンドユーザーには手の届かない領域を、技術者の視点から可視化する試みを行ってきた。2013年に発表した≪traders≫・2016年の≪chains≫はその好例である。リアルタイムで東証株式市場のデータやビットコインの取り引きなどをヴィジュアル化するこの2作品は、ソフトウェアに具象化された側面しか触れることのない私たちが通常目にすることのないその奥を提示した。

 今回の個展で発表された作品のひとつ、≪particles 2021≫は暗室におけるインスタレーションである。十数段に重なった8の字のレールの上からいくつもの球体が転がってくるのだが、その球体には見たところ不規則な間隔で光が投射され、それに応じて鋭い音が鳴るという仕組みだ。10分ほどのあいだ私たちはその光と音に晒されることになる。明滅する光は目を刺し、無調なノイズは耳をつんざく。この空間に人間は不在である。暗室では周りはおろか自分の姿すらほとんど見えない。ただ光と音が感覚器官を刺激し、それによってかろうじて自分の身体を確かめるのである。身体が感覚器へ瓦解してゆくこと、しかしそれはどこか快い。これは精神分析のいう死の欲動である。≪particle 2021≫において、私たちはそれを動かす技術をわからぬままに暗室の中に幽閉される。このメディア環境による人間の疎外のなかに、しかし死の欲動を、人間の瓦解とその美しさを発見するのだ。

 では、メディア環境において人間は疎外されるだけだろうか。そうではない。女性ダンサーグループのELEVENPLAYとの共作≪Rhizomatiks×ELEVENPLAY “multiplex”≫で、私たちがまず目にするのは動く白いキューブとともにELEVENPLAYが躍る映像である。そして次の部屋に進むと同じキューブがまた動いているのだが、当のダンサーはおらずその動きが光の線に縮減されているのである。≪particles 2021≫にあった身体の消去というモチーフがここにもまた見いだせはする。しかし直ちに、次のような疑問が湧くことだろう。現れては消える光のうちにダンサーの躍動を確かに感じ取れはしないか? キューブの機械的な動きをダンスとは呼ぶことは本当に不可能なのか? 導かれるのは、もはやキューブ(無機物)とダンサー(有機体)の境界は不分明だというサイボーグ・フェミニズム的な結論である*²。キットラーの指摘のとおり、身体なるものも結局のところテクノロジーの効果に過ぎないかもしれない*³。しかしそれでもなお、という希望がここにはある。テクノロジーの遍在する社会にあって、身体はどこにあるのか。ライゾマティクスはこうした問いに答えるヒントを提供してくれるはずだ。


*¹ フリードリヒ・キットラー『ドラキュラの遺言 ソフトウェアなど存在しない』(原克・大宮勘一郎・前田良三・神尾達之・副島博彦訳、産業図書、1998年)。なお本稿のキットラーにかんする記述は以下の論文も参考にしている。梅田拓也「シリコンチップのメディウム固有性のために――フリードリヒ・キットラーのコンピュータ論」(『メディウム』1、2020年)、梅田拓也「メディア哲学とメディア実践――フリードリヒ・キットラーのコンピュータ論」(伊藤守編『ポストメディア・セオリーズ――メディア研究の新展開』、ミネルヴァ書房、2021年)、Nicholas Gane, “Radical Post-humanism: Friedrich Kittler and the Primacy of Technology,” pp.25-41, Theory, Culture and Society, Vol 22, Issue 3, 2005.

*² ダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言:二十世紀後半の科学、技術、社会主義フェミニズム」(『猿と女とサイボーグ:自然の再発明』、高橋さきの訳、青土社、2000年)。

*³ フリードリヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター 上』(石光泰夫・石光輝子訳、筑摩書房、2006年)。

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