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アデ・ダルマワン、レオナルド・バルトロメウス:

ルンブンに(よって)学ぶ集団的美術教育

インタビュー/ アンドリュー・マークル、平河伴菜、中谷圭佑

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The Question of Funding, The Question of Funding (2020年) 「ドクメンタ15」より

ルアンルパの活動において、教育が果たす役割とは?

アンドリュー・マークル(以下、AM):2019年に今年のドクメンタ15のアーティスティック・ディレクターに就任して以来、ルアンルパ(ruangrupa)には国際的な関心が高まっています。同時に、ルアンルパとはいったい何者なのだという、多くの困惑の声が上がっているように感じています。彼らはアーティスト・コレクティブなのか?キュレーターのプラットフォームなのか?組織なのか、それともコミュニティなのか?このようなルアンルパに対する困惑は、アートの国際的な流通のために作られた、硬直したカテゴリーに起因している部分もあります。しかし私は、ルアンルパを既存の定義のなかに縛りつけるのではなく、教育というレンズを通してアプローチすることによって、ルアンルパの実践の異なる側面がどのように互いに影響し合っているのかを明らかにすることができるのではないかと考えています。実際、私の理解では、ドクメンタ15のコア・コンセプトのひとつである「ルンブン(lumbung)」を初めて実施したのは、2018年にセラム(Serrum)とグラフィス・フル・ハラ(Grafis Huru Hara)という2つのコレクティブと共同でグッドスクール・エコシステム(Gudskul Ekosistem)という教育事業を立ち上げたときだったかと思います。アデさん、まずはルアンルパの活動において、教育が果たす役割について教えてください。

アデ・ダルマワン (以下、AD):教育というのは、実際、ルアンルパの進化を考えるうえで良い切り口であり、これまであまり書いてこなかったことでもあります。ルアンルパを設立したのは2000年ですが、オリジナルメンバーが知り合ったのは1995年頃、私たちが美大の学生だったときです。美大という環境に身を置き、教育機関と向き合うということは重要な要素でした。それに加えて、私たちの初期の活動は、1998年のリフォルマシ(Reformasi)における大きな学生運動の一部でもありました。私たちは、教育がいかに管理と力の概念に支配されているかを強く意識していました。そして長年学生を悩ませ続けてきたこの関係性を解体したい、あるいは、どうにかしてこの関係に対して働きかけたいと思っていたのです。教師の家系に生まれた私自身にとってみれば、それはなおさら切実なものでした。

そういう意味で、正式な教育機関の外側において学生や教師とのネットワークを構築することはもっとも優先するべきことのひとつでした。私たちはこれを、学校の壁の内側に閉じた現実と、外の現実の橋渡しをする方法として考えたのです。2004年には、あらゆるクリエイティブな分野で活動する学生のためのフォーラムとしてジャカルタ32℃(Jakarta 32°C)を立ち上げました。初回には10校から参加者が集まり、最終的には20を超える学校からの参加があったと思います。

私たちはある時期から、ルアンルパ自体がひとつの学校になりつつあるのではないかと考えるようになっていきました。多くの学生が私たちと一緒に仕事をしたり、駄弁ったり、プロジェクトに参加したりしていたのです。それはとてもカジュアルなもので、失敗したり、バカなことをしたりと、体験的な学習のかたちでした。そして、そのような学生たちがジャカルタだけでなく他の都市でも、グループの外で何かを始めるようになり、ネットワークがどんどん広がっていったのです。

これはルアンルパに限った話でなく、ましてビジュアルアートの世界だけの出来事でもありません。いまや私たちの世代には、学校のような存在になっている取り組みがたくさんあります。インドネシアにおけるコレクティブは、正式な学校ではできないような経験を人々に提供しています。例えば、2億人の人口を抱えるインドネシアにはフィルムスクールは1つしかありません。ではいったい映画制作に携わる人々はどこから来るのでしょうか?そう、まさにルアンルパのようなコミュニティから生まれているのです。インドネシアの17,000の島々には、それほど多くのアートスクールがないと言われるかもしれませんが、そのかわりに非常に多くのコレクティブやイニシアチブ、コミュニティが生まれています。私たちはちょうどインドネシアのコレクティブに関するリサーチをまとめた『Articulating Fixer 2021』を出版したばかりで、この本には50以上のコレクティブが掲載されていますが、その多くは実践的な学習に基づいた活動をしています。

そして現在、ルアンルパには異なる分野だけではなく、異なる世代の人間が混在しています。バルトは2012年頃に参加したので、私たちにとってはすでに4代目といったところでしょうか。ある年のイベント、たぶん「OK. Video Festival」の後だったかと思いますが、自己評価をしているときに、ある若い友人から自分は失敗することを恐れていたと打ち明けられたことを覚えています。私は衝撃を受けました。なぜなら私たちにとってルアンルパとは常に自分たちのやりたいことをやるところだったのです。ですが、いまここには、その若者によって失敗という概念が持ち込まれたのです。私たちは一歩下がって、何が起こったのかを考えなければなりませんでした。間違いについて話し始めるということはつまり、自分たちが組織化した、プロフェッショナルになったということを意味します。

私たちは、教育や知識を再生産するプラットフォームとして活動する必要性を認識しました。なぜならそれが、私たちの知識や経験を、その重要性を失わずに、また制度化されすぎることなく伝える、唯一の方法だったからです。そして、そこで私たちはセラムと繋がったのです。セラムが素晴らしいのは、メンバーが実際に教師としての専門性を大学での学びを経て身に付けており、私たちに異なる角度からのアプローチをもたらしてくれることです。教育的プラットフォームは、世代を超えて私たちのアイデアと批評性を維持するためのメカニズムなのです。

AM:活動をはじめた当時のカリキュラムはどのようなものだったのでしょうか。インドネシアにはバンドン、ジャカルタ、ジョグジャカルタに大きな美術学校があり、ローカルマーケットも盛んなため、最低限のアートコミュニティーのニーズは満たされていると思います。あなたにとってそれはむしろ哲学的な問題だったのでしょうか?

AD:インドネシアに近代の美術学校ができたのはじつは最近の話で、戦後からのことなのです。しかし、現在はアートシーン全体を支配しています。あなたがおっしゃったその3つの学校は、インドネシアでマーケットと連動してアーティストを生み出している主要な存在です。そういった意味では、彼らはエコシステムの一部なのです。しかし、これらの美術学校は変化に抵抗しながら非常にゆっくりと時代に適応していくため、カリキュラムはいまだにとても古典的で、彫刻、絵画、版画といった厳格なカテゴリーに分かれています。

私たちにはもっと多くの選択肢が必要です。いまやアートを制作し、認識する方法はたくさんあります。だからこそ、アート・コレクティブやコミュニティによる自発的な教育のアプローチが、インドネシアにおけるアートの見方を広げるのに役立っているのです。インドネシアにおけるアートやアーティストに対する制度的な定義は、西洋のモデルに基づいています。アートが個人の表現形式であるという考え方は、インドネシアでは100年足らずの歴史しかありません。一方でコミュニティやコレクティブによるアートは、それよりはるかに古くからの伝統を持っています。また、アーティストとしてのキャリアという考え方も本当に新しいものです。私が美大で勉強していた1990年代でも、今ほど発展していませんでした。共通意識としては、20年か30年かの歴史しかありません。

ですから、インドネシアでは西洋のモデルに対してアートへのアプローチの多様化が進んでいながらも、じつは同時に前近代の伝統へと回帰しているというわけです。もちろん、脱植民地化の過程で近代化は重要なステップでした。議論や批評のレベルを共有した上で、植民地化を進めた人々に言い返すことができるようになる必要があります。しかし、それがいま何を意味するのか、私たちは問い直さなければなりません。現在のインドネシアの文脈において、絵画を学ぶということが何を意味するのか、と。

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上:ジャカルタ32˚C 下:イルワン・アーメット「Happiness」、インスタレーション風景、ジャカルタ、ルル・ギャラリー (2008年) 両方:ルアンルパより

正規の制度に挑戦し、進歩を促せるような教育プラットフォームへ

AM:バルトさん、ルアンルパの形成における教育の役割と、それを山口情報芸術センターYCAMのキュレーターとしての仕事にどう活かしているかについて、何か付け加えることはありますか?

レオナルド・バルトロメウス(以下、LB):インドネシアの美術教育において、ルアンルパが果たす役割は過小評価されているように思います。2008年にルル・ギャラリーでおこなわれたイルワン・アーメットの展覧会を見に行ったとき、ジャカルタ芸術大学の学生だった私がどんな気持ちだったか想像できますか?私は驚きました、なぜ大学では誰もこれについて教えてくれなかったのだろう?インスタレーション?コンセプチュアル・アート?当時はほとんど他に行くようなところがなかったので、それが現代美術に興味を持つきっかけになった出会いでした。美大の先生の中には、生徒がルアンルパに行くことを禁止している人もいたくらいです。あれはアートじゃないから、と。なので、まずひとつ言えることは、ルアンルパが私たち若いアーティストに、正規の教育で経験できることに対するオルタナティブを与えてくれたということなのです。そして、ルアンルパが果たすもうひとつの重要な役割は、正規の教育におけるギャップを埋めることです。私が学生だったころは、キュレーターや批評家のためのプログラムは基本的にありませんでした。そして、2016年にルアンルパが15周年を迎えたあたりから、私たちはルアンルパの活動の核となっているのが「学び」であることを意識し始めました。多くの友人たちから、正規の制度に挑戦し、かつ進化を促せるような本物の教育プラットフォームを作ろうという声が上がっていたのです。そこで生まれたのがグッドスクール(Gudskul)のアイデアです。設立された3つのコレクティブは、ワークショップやプロジェクトベースの活動を用いて、コミュニティで教育プログラムを導入するという点において共通しています。

私がYCAMで企画したセラムのプロジェクトも、そこがポイントだと思います。私はメディアアートのキュレーターではないので、山口に来た当初は、自分が何に貢献できるのだろうと考えていました。そこで私は、自分の知識と、インドネシアや他の地域の仲間とのネットワークを提供できることに気づき、この施設を地元のコミュニティへと開いていく方法を探したいと思いました。日本では美術館やアートセンターが非常に確固とした制度として存在しているため、来館者はすでに、そこで美術品を見るときには決まった振る舞いがあるという心象を抱いています。ですから展覧会を作るのではなく、その代わりに来場者がその空間を活用できるようなプラットフォームを作りたいと考えました。YCAMはすでに教育に力を入れていたので、そこが出発点となりました。セラムの面白いところは、インドネシアで唯一、メンバー全員が教育実践の訓練を受け、アートエデュケーターとして活動しているアート集団だということでしょう。セラムとYCAMの教育チームの間では、実に興味深い会話が交わされました。私の次のプロジェクトはリヴァプール・ジョン・ムーア大学のシティ・ラボと協働することで、そこはタニア・ブルゲラのアルテ・ウティル(Arte Útil)という概念や、ジョン・ラスキンやアーツ・アンド・クラフツ運動の考え方を通じて、役に立つ芸術という概念を取り戻そうとしているのです。彼らはアート作品を、美術館のオブジェとしてだけでなく地域社会の役に立つものとして、一個人や一機関がアートかどうかを決めるのではなく、実際に地域に根ざしたものとして考えているのです。

施設がコレクティブと共にプロジェクトを制作するということは、まだわりと珍しいのだと思います。例えば、YCAMでは通常、個人のアーティストを招待して一緒に仕事をしてもらっています。それが簡単なことだとは言いませんが、しかし少なくともその方が一人の人間とだけやり取りすればいいので、作業は比較的シンプルになります。コレクティブの問題は、誰を相手にすればいいのかわからないことです。コレクティブは常に変化しています。でも、それが来場者の好奇心を刺激することもある。コレクティブとは何なのか、どう定義すればいいのか、という疑問があります。私にとってコレクティブとは、形式的な基準などではなく、お互いの能力を活用し、リソースを共有することだと考えています。これは私がルアンルパから学んだ概念であり、セラムのプロジェクトへと置き換えた考えです。

AM:ルアンルパが「Sonsbeek '16」のために選んだタイトル『transACTION』にも示唆されているように、ルアンルパとセラムの場合、人々が行き来しながら意見交換できる空間を提供することが重要なように思われます。しかし、組織とは選択するものなので、それを回避しながら、どのようにしてオープン・スペースを、文字通り“開いた”状態に維持できるでしょうか。

AD:それは、規模と時間の問題です。インドネシア政府の政策から言葉を借りるならば、私は、コレクティブは常に中小企業であるべきだと考えています。グッドスクールは今、かなり良い規模感になっています。アンドリューが言うように、一度規模が大きくなってしまうと、時間の概念が変わり、権力構造も出てきます。

例えば、私たちはグッドスクールを「ルンブン」として運営しており、すべてのリソースとお金を集めているコレクティブの共同資金がありますが、それは決して中央集権的なものではありません。それは、より透明性があり分散的なものです。今どれだけの銀行口座が飛び交っているのかは、私にもわかりません。ラジオ番組、ショップ、美術品の輸送・保管、学校、ギャラリーなど、すべてにおいて1つずつあるようです。それを管理するグループがあり、すべてを見直して、どのお金をどこに入れるかを決めています。また、月に一度、「マジェリス(majelis)」があり、一日中座って話し合い、感情や問題点などを共有し、みんなで物事を決めていきます。自己組織化されているのです。そしてそのためには、ある一定の規模感を保つ必要があります。もしあまり大きくなりすぎてしまうと、国家的になってしまい上手くいかないのです、ほとんどの国家を見ればよくわかるように!そして時間もまた大きな問題です、なぜなら信頼と関係を築くには時間が必要だからです。このプロセスを加速させる方法は私にはわかりません。私たちの経験では、何事も時間が必要なのです。

ですから、持続可能なモデルというのは、おそらく成長に重点を置かないようなものなのではないでしょうか。中小規模でありながら、繋がっている。これまでの数年間を振り返っても、その関係を維持できたコレクティブだけが生き残ってきたことがわかります。

 

AM:教育はルアンルパの多くの芸術活動やキュレーション活動のエンジンですよね。例えば、アーティストのためのワークショップを開催すると、教育的な交流が行われますが、結果的にそこから新しい作品が生まれることもあります。そして、そのワークショップ自体が、インスタレーションなど別の形で国際展に持ち込まれることもあります。「ドクメンタ15」の構成にもあなたの教育の経験が生かされているのではないかと思いますが、どうでしょうか。

 

AD:その方向性は、芸術活動そのものに対する批判性からくるもので、じつは私たちが芸術と呼ぶものを美術学校がどう定義するのか、という問題にまでさかのぼります。もちろん、学校だけでなく、美術館やビエンナーレ、アートマーケットなど、美術業界全体を支えている大きなモンスターたちが存在します。人々はこのシステムがいかに搾取的で、多くの人を苦しめているかということに、徐々に気付き始めているのではないかと思います。

ドクメンタを企画するにあたって、私たちは「ルンブン」をテーマとしてではなく、ひとつの実践としてとらえています。ある特定の作品ばかりを見るのではなく、作家たちの実践を見ているのです。教育プラットフォームとの繋がりは、私たちに多くのことを教えてくれました。私たちは、様々な文脈で、現代美術に対する全く異なる認識を持つ、多様な教育プラットフォームのモデルに出会いました。イラクのような場所における現代美術とは何なのか?それは何を意味するのか?人々は、その考えを逆手に取っているのです。ですから、私たちはこのドクメンタを、展覧会というよりも旅として構想しています。100日間が終わった後、何ができるのか、どうすればドクメンタ15そのものの限界を超えていくことができるのか、仲間たちと一緒に考えているのです。

今回のドクメンタの主な目標のひとつは、経済モデルの実験です。新しい経済モデルを発明することなしに、制度的な実践への新しいアプローチを見つけることはできないと思います。なぜなら、国家のお金、企業のお金、経済市場など、すべてが繋がっているからです。このようなことは、つねに透明性をもって語られることは決してありませんが、芸術機関がどのように構築されるのかについて大きな役割を担っています。

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上:セラム Kurikulab: 朝クラス、インスタレーション風景、山口情報芸術センター(2021年) 下:セラムでのアイデアスクールワークショップ 山口県の地域のファシリテーターと学生と共に 両方:撮影:吉田一真 山口情報芸術センター (YCAM) より

他者の活動から知識を集めてまとめる

AM:バルトさん、セラムのメンバーは実際にジャカルタの学校に行き、数学からメディアリテラシーまで幅広いテーマのプログラムを作っているそうですね。   

 

LB:はい、そして現在、文部科学省の支援を受けて、他の2つのオルタナティブスクール、Sanggar Anak AkarとErudio Indonesiaと共同で、PRESISI(プレシジョン)という国家プロジェクトを展開しています。私の記憶違いでなければ、すでに100校で試行されているようです。アートを用いた学習プロジェクトです。生徒が学びたいテーマを選び、半年間かけて自分たちで調べ、ビデオや写真、絵などの視覚資料を使ってプレゼンテーションを行います。コレクティブとしてはなかなかの成果です。私は彼らと、今はまじめになりすぎているね、などと冗談を言っています。でも、彼らには目的とビジョンがある。今まさに、インドネシア全土のコレクティブでこのようなことが起こっています。多くのコレクティブが、地域社会に貢献することを使命としているのです。


 

AM:今学期、私たちが読んでいる本のひとつに、ドリス・ソマー著『The Work of Art in the World』があります。彼女は、アートを用いた教育は子どもに読書を教えるためだけでなく、民主主義に参加するためのリテラシーを市民が身につけるためには重要な技術であることを力強く書いています。この本のことをご存知ですか?

LB:ええ、持っています。アデが言う施設で働くことの苦悩というのは、まさにそういうことなのではないだろうかと思います。それは機械のようなもので、常に更新が必要であり、人間関係を構築するための時間が少ないのです。アーティストを招き、プロジェクトを行い、それでおしまいなのです。しかし、ルアンルパのドクメンタへのアプローチと同様に、私たちが自問しなければならないのは、その後に何が起こるのかということです。もし、そこから持続的な関係性が生まれないのであれば、このようなプロジェクトを行うメリットはいったい何なのでしょうか?ですからYCAMでは、一般的な1年単位のプロジェクトではなく、3年間にわたるプロジェクトを提案したのです。施設は、来館者を有権者や友人、隣人としてではなく、単なるデータ量や数量といったパフォーマンス指標として見る傾向があります。そのような人たちと話をするために、特別なプロジェクトを設ける必要ないはずです。私たちは、常にオープンな空間を維持することに関心を持つべきなのです。

AM:アデさんは、「あいちトリエンナーレ2016」で行われた「ルル学校」プロジェクトにも取り組まれたのですか?

 

AD:ええ、最初の2週間、オープン前の1週間と、オープン後の1週間は、私も現場にいました。

 

LB:彼の最初の授業のテーマは「無秩序になる方法」についてでした。来場者の多く、おもに日本人の皆さんはとても驚いていましたね。彼らは質問していましたよ、いったいそんなことができるのか?と。

 

AD:また別の回では、街から何を消すべきかについて考えてもらったこともありました。何かを加えるのではなく、消すのです。あれは楽しかったですね。

 

AM:全体的な印象はいかがでしたか?

 

AD:実際、本当に刺激的な経験でした。ジャカルタでは、近所の人たちと一緒に仕事をすることが多く、それはとても自然なことなのですが、国際的なプロジェクトに招待されると、美術館のような場所での展覧会になりがちです。ただ美術館には隣人がいないのです。彼らはどうにかして、隣人とのご近所付き合いをする方法を見出さなければなりません!なにせ建築はとても不親切で、地域から切り離されています。バルトが言ったように、そこには訪問者しかいないのです。でも、愛知での場所設定は本当に素敵なものでした。私たちは街の真ん中に入って、地元の人たちと一緒に仕事をするわけですから、私たちが何かを教えるということではなく、私たち全員が一緒に学んでいくことができました。

もともと織物屋だった場所でのプロジェクトだったので、私たちはそこの織物を使うことができました。店主が私たちにしてくれたレクチャーがとても印象的でしたね。彼はその場所の歴史を江戸時代までずっとさかのぼることができる、近所の歴史家のような方でした。私たちは、そういう類の知識を周辺から引き出していきたいのです。この話をしていて思い出しましたが、南アフリカからドクメンタに招聘したグループのひとつに、ケレケトラ!ライブラリー(Keleketla! Library)がいます。彼らは自らを図書館と呼んでいますが、彼らの図書館では本をコレクションする代わりに、ミュージシャンやストーリーテラーなどを招き、演奏や講演をしてもらっています。彼らにとって、知識とは最終的に身体の中にあるものなのです。それは、私たちが「ルル学校」で行ったことに似ています。私たちは知識を集め、まとめていたのです。私たちは当時の参加者のうち3人と、今でも連絡を取り合っています。

バルトは確か「ルル学校」に私より長く滞在期間していましたよね?

 

LB:2ヶ月半ほど滞在していました。「ルル学校」の関係者はみんな、日本とインドネシアを行ったり来たりしていたので、誰かが最初から最後まで現場でプロジェクトを監督しなければならない。私はずっと名古屋で足止めを食らっていましたよ!

「ルル学校」プロジェクトは、私たちに大きな刺激を与えてくれました。その前年に、私たちは最初の教育プラットフォームとしてインスティテュート・ルアンルパ(Institut ruangrupa)のアイデアを思いついていましたが、そのプロジェクト自体はゆっくりとしたペースで動き始めたものでした。しかし「ルル学校」は、他の人の活動から知識を集めていくというやり方が上手くいくことを確信させてくれました。私たちはすでにジャカルタで多くの友人やネットワークを持っていましたが、その繋がりをより長期的なプログラムに拡張させる方法を教えてくれたので、グッドスクールに発展したのです。

グッドスクールで重要なことのひとつは、1年という期間を決めてプロジェクトを行うとき、それはカリキュラムを完成させるためでも、教材の内容を習得するのにかかる時間を計算するためでもない、ということです。私たちは1年間という時間を、参加者との関係を構築するために必要な時間だと考えています。本当の意味での繋がりは学習プログラムが終了した後に生まれるものであり、それからが本番で、やっと一緒にプロジェクトができるようになるのです。例えばある年には、インドネシア全土から集まった10のコレクティブとともに、ジャカルタの美術館で大きなプロジェクトを企画したことがありました。

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上:「Sonsbeek ’16」でのルルハウス(2016年) 下:「あいちトリエンナーレ」でのルル学校(2016年)両方:ルアンルパより

アートにおける言説の流れに逆行する

AM:「ルル学校」のアイデアがどこから来たか覚えていますか?

LB:キュレーターの服部浩之さんから、あいちトリエンナーレに参加しないかと誘われたのがはじまりだったかと思います。服部さんは、その前の「Sonsbeek '16」に来ていて、そこで私たちが手がけたルルハウス(ruru huis)を見たそうです。そしてそれを、名古屋で再制作して欲しいということでした。その提案を受けてみんなで相談していたら、誰かが学校を作るというアイデアを思いつきました、「そうだ、道場を作ろう!」と言い出したのです。その言葉をきっかけに、みんなが次々にアイデアを追加していきました。あれは有機的な出来事でしたね。また、私たちよりも名古屋のことをよく知っている地元の協力者たちからもアドバイスをもらいました。アデが言ったように、私たちは名古屋に住むという経験を通じて、その土地にどのような知識が存在しているのか知りたかったのです。

AM:国際的な現代美術について語るとき、そこで使われる概念や用語は、いわゆる中央から、その周縁へと分散していくという前提のもとで考えられているのが現状です。ドクメンタ15において興味深いのは、ルアンルパがインドネシア語の用語を国際的な文脈の中でその中心に再定位していることです。もちろんいうまでもなく「ルンブン」がその一つで、「マジェリス」もあるし、また「インターローカル(inter-lokal)」といった言葉は、英語話者にはすぐに理解できるかもしれませんが、インドネシア語の正書法を使うことによって馴染みにくいものになっています。アートにおける言説の流れを逆行させることが、ドクメンタのモチベーションになっているのでしょうか。

 

AD:そうですね。芸術の言語の植民地化は根深いものなので、これらのインドネシア語の用語をドクメンタに持ち込むことは、群れを成して混乱を生み出す一つの方法なのです!そして、じつはインドネシアから持ち込まれた用語のみならず、アフリカやラテンアメリカ、東欧の言葉など、私たちが全てのアーティストたちのために企画した大きな「マジェリス」には、あらゆる種類の言語が飛び交っています。私たちはすでに2回、リモートで「マジェリス」を行いましたが、100日間の間にもう1回、対面で「マジェリス」を行いたいと考えています。同じZoomの画面上に150人全員が、あるいはその全てがグループであることを考えればそれ以上の人数が参加しているのを想像してみてください!実際、ジャティワンギ・アート・ファクトリー(Jatiwangi Art Factory)では、いつも20人が1台のカメラを共有しているのです。

いずれにせよ、このプロセスの中で飛び交う非西洋的な用語を認識し、それらの異なるコスモロジーをドクメンタの文脈に取り入れるための方法として、私たちは用語集を作るつもりです。アムステルダムのサンドバーグ・インスティテュート(Sandberg Instituut)のディスアーミング・デザイン・プログラム(Disarming Design program)に参加している学生のグループが、私たちのために用語を収集し、それを用語集にまとめてくれる予定です。

 

AM:ギリシャやラテンの古典がイスラム文化圏からヨーロッパに持ち帰られたという、ルネッサンスのきっかけとなった歴史的な出来事にも似た響きを感じますね。

 

AD:まあ、マリやハンガリーなどにも「ルンブン」と似たようなコンセプトはあるんですけどね。それらも含めてこれから取り組んでいくつもりです。私たちは「ルンブン」を世界の共通言語にしようとしているのではありません。ドクメンタ15は、お互いの異なるモデルから学ぶための祝祭になるでしょう。このモデルこそが唯一の実用的なモデルだ、と言いたいわけではないのです。自分たちですらもわかりません、私たちはまだ探っている途中なのです。

 

 

中谷圭佑(以下、KN):ルアンルパがドクメンタをどのようにハッキングしようと考えているのか、もう少し詳しく知りたいです。例えば、カッセルの保守的な人々から何か否定的な反応などはありましたか?

 

AD:ドクメンタのアーティスティック・ディレクターは、美術館の館長やキュレーターなど、さまざまな立場のアート関係者からなる調査委員会によって選出されるのが通例となっています。その委員のひとりが、私たちに提案書を出してみないかと誘ってくれたのです。私たちに何ができるかを考えたとき、ドクメンタのことを考えるよりも、自らに問いかけ、これからの数年間で自分たちがどこに向かっていくのかを想像することが大切だと思いました。ちょうどグッドスクールを立ち上げた直後だったこともあり、進むべき道はすでに私たちの考えの中にありました。そして、ドクメンタをジャカルタに呼び戻すというアイデアが生まれたのです。私たちは、私たちがドクメンタの一部なのではなく、ドクメンタを私たちの旅の一部として捉えました。カッセルの街に「ルンブン」のコンセプトを持ち込もうと考えたのはそのためです。このコンセプトを共有し、私たちのみならず、より広く人々をルンブンへと招きたいと思っています。

委員会のメンバーは、このコンセプトがドクメンタを越えてどのように発展していくのかについてとても興味を持っていました。あるインタビューで、彼らの一人から「それじゃあ、展覧会はしないのですか?」と質問されたのを覚えています。私たちは少し驚かされました。何かを伝え損ねたのかもしれないと思い、改めて自分たちの考えを説明すると、彼は「もしかしたら、展覧会は必要ないのかもしれない」と言いました。

でも確かに、保守的な部分もありますね。見るべき展覧会が行われないのではないか、自分たちが理解しているようなアート作品が展示されないのではないか、という大きな不安がそこにはあります。何かが取り去られてしまうと思い込み、恐れているのです。私たちはアートの実践を多様な視点から見る方法についてやりとりしています。先ほども言ったように、世界には異なる様々なコスモロジーが存在しています。しかし西欧の考え方は、非常に自己中心的な傾向があります。もちろん、これは古典的な植民地主義の典型例にすぎませんが、彼らは自分たちのことしか知らず、世界の他の国も同じように考えている、あるいは同じであるべきだと考えています。そのことが、アートの見方にも影響しているため、こういった人々とコミュニケーションをとるには時間と労力がかかります。

「Sonsbeek '16」では、パラサイト・プロジェクトとしてアーネムにルルハウス(ruru huis)の企画を持って行きましたが、カッセルではそれに続く「ルルハウス(ruruHaus)」という、さらに長いスパンで活動するプロジェクトを行っています。この企画は、すでに2年前に立ち上げました。説明しにくいことがあまりに多いので、体験を通して理解を深めてもらおうと考えたのです。ヨーロッパでは常に書かれたものを通じて理解することが求められますが、私たちは肉体的な経験のレベルを取り戻したいと思っています。私たちの活動は、非常に身体的、空間的、経験的であり、アートと生活の境界線をどのようにぼかしていくのかをいつも考えているのです。

過去2年間、カッセルでルルハウス(ruruHaus)を運営したことは、私たちにとって重要なことでした。ルアンルパから派遣したメンバー2人がずっとそこにいてくれたこともあり、カッセルのエコシステムの中で、私たちのセンサーのような存在になっています。以前は、ドクメンタのアーティスティック・ディレクターは雲の上の存在で、アンタッチャブルでした。でも今は、地元の人たちは私たちと話をすることができます。ルルハウス(ruruHaus)に行って、そこで何かを作ることができる。私たちは行動や実践を通して説明します。時間がかかりますが、それこそが「インターローカル」の意味するところなのです。カッセルの外で活動するようなことではありません。ローカルを認識するということです、なぜなら、過去のディレクターの努力にもかかわらず、これまでカッセルの街はドクメンタの一部として見られることはありませんでしたから。カッセルは単なる展示場所ではありません。そこには住んでいる人たちがいます。ルルハウス(ruruHaus)は、時間と空間を越えて機能するため、そのような地域の文化やイニシアチブを表現する手助けをすることができるのです。

 

KN:実は私自身、小さなコレクティブの一員です。お二人はコレクティブであることのダイナミズムにどのように対処しているのでしょうか?

 

AD:コレクティブというものを美化しないほうがいいですね。コレクティブとは闘いなのです。混沌としていて、無秩序で、非効率で・・・そしてもちろん、美しい。私たちが行うことの多くは、個々人の情熱や興味に基づいており、それがコラージュのように集まってきます。強い集団性は、強い個性から生まれるのです。

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グッドスクールの外観風景、ジャカルタ(2020年)「ドクメンタ15」より

ドクメンタを越えて、この先の発展を考える

平河伴菜:ルアンルパの今後の展望についてお伺いします。ドクメンタを終えた先に起こることに、若いメンバー達はどのように貢献するとお考えでしょうか?

 

AD:ゆっくりと溶けていくような感じですかね、ちょうどセラムやグラフィス・フル・ハラとコレクティブ・オブ・コレクティブス(集団の集団)を結成した時のように。先日、友人からグッドスクールの実践活動はまだやっているのか、と聞かれたので、オンとオフを繰り返している、と答えました。他のメンバーが何をやっているのか知らないことも多いので、自分でも驚くことが多々あります。長いことそうなのです。誰がプロジェクトをリードし、誰が後ろにいて、誰が話し、誰が聞いているだろうか、私たちはほとんど本能的に分かっているのです。

今の私たちにとって、経済モデルの試行錯誤は重要な課題のひとつです。私たちはいまだ正しいものを見つけられていないのではないかと、私は考えています。ドクメンタを通じて、様々なコンテクストから多くの異なるモデルを学ぶことができるのは素晴らしいことです。ドクメンタ15は、一般的な展覧会のように、アーティストに頼んで作品を見せてもらうようなものではありません。私たちは、彼らの実践、倫理的価値観、モデル、そして彼らから何を学ぶことができるかに着目しています。

 

LB:コレクティブについての質問に戻りますが、私はYCAMで転換期を迎えています。私のキャリアにおける最初の10年間はコレクティブの一員だったのですが、それから突然、全員が個人として評価される機関に入りました。私は、いや違う、みんなと一緒に働きたいのだ、と思いました。ただ単にキュレーターやアーティスティック・ディレクターが組織の長として意思決定を下すのではなく、みんなで話し合って、アイデアを出し合うこと、それが、ルアンルパがグッドスクールへと溶解していったことから私が学んだことです。

しばしば、コレクティブをどう定義するか、と聞かれることがあります。私はこのような質問に対して、メンバーが何人いるとか、物理的なスペースがあるとか、そういう形式的な基準はあまり考えないほうがいいかもしれない、と答えています。ルアンルパについてのレクチャーでは、もちろんスペースやフェスティバルのことについて触れますし、そういったものがコレクティブの理想的なイメージを作り出してはいますが、決してそれだけではないのです。コレクティブとは、いかにリソースを共有し、いかに周りの環境やエコシステムと繋がり、そこから何を発展させていくか、ということなのです。

2015年くらいにベルギーのアーティスト、リサーチャーのレイナート・ヴァンホーが、『Also-Space, From Hot to Something Else: How Indonesian Art Collectives Have Reinvented Networking』という本を書いていますが、彼はルアンルパのメンバー全員を集めて、私たちに何をやりたいか聞いてきました。グッドスクールがまだ始まる前だったので、私たちは冗談で、もしかしたらもう解散したほうがいいんじゃないか、と言いました。それを聞いて彼は驚き、動揺していました。でも、それこそがルアンルパなのです。すべてを占有するような大きな組織になるのではなく、常にもっと散在的なものなのです。ルアンルパはドクメンタを終えた後に、巨大なプロフィールを持つこととなり、いままでと同じようにはいかなくなるでしょう。ですから私たちは、自らを中小規模に保ちつつ、他者に私たちのリソースを使う機会をより多く提供するための新しい選択肢を見つける必要があるのです。

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