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高山明/Port B.インタビュー 《戦争画ヘテロトピア》を巡って

金秋雨、ゴン・サンへ、中谷圭介

当事者の物語、詩の力

ゴン・サンへ(以下KS):私は二つの質問を用意しました。まず私たちがリサーチャーとして参加した《戦争画ヘテロトピア》についてお聞きしたいです。《ヘテロトピア》プロジェクト(2013-)の以前の作品では、タイトルに東京や北投、リーガなど、都市の名前が入っていたと思いますが、今回は「戦争画」という名前になっています。そこで《戦争画ヘテロトピア》は、どういった経緯で始まったのかについてお聞きしたいと思います。

 

 
高山明(以下TA):《戦争画ヘテロトピア》は、東京国立近代美術館で何かできることはあるかなと考え始めたのが最初でした。じつは前にワリス・ノカンさんという、台湾の原住民の作家・詩人の方を日本に招いて、学芸員の蔵屋美香さんに協力してもらって、美術館の収蔵庫を見せてもらったんです。そこで藤田嗣治が描いた絵を一緒に見たとき、台湾原住民を扱った戦争画がありました。ワリスさんは、戦争中にフィリピンなどの戦地に日本軍として動員された原住民たちの末裔です。藤田が描いた自分の祖先がフィリピンなどで戦っている絵を一緒に見て、ワリスさんは詩人ですから、その絵を詩にしてくださいと頼んだんです。蔵屋さんにいろいろ見せてもらったときに、とにかく収蔵庫というものを初めて見たので、こんなにすごいんだと思いました。当たり前だけど戦争画がいっぱいあったんですね。絵を見るのは本当に一つの体験だと思いますが、僕らは普段それを見られないから機会が奪われているとも感じました。しかもそれが国立近代美術館のものでもなくて、アメリカから貸与されている、借りているものと聞いてそういう構図もすごいなと思いました。それで美術館で見えない、もっともヘテロトピア的なものはひょっとすると戦争画かもしれないと思って《戦争画ヘテロトピア》、つまり戦争画をヘテロトピアとして扱おうと思ったんです。


KS:次の質問は制作についての話ですが、私たちリサーチャーというそれぞれの担当者が詩人や朗読者たちを探して作っていくようなプロジェクトの中では、必ず偶然性が現れたり、思い通りにならなかったりする状況がたくさんあると思います。高山さんがこうしたコラボレーターと仕事するときに彼らに期待する部分があれば教えていただけますか。 


TA:今言ってくれたように、偶然とか出会いとか、たまたま何か掘り当ててしまったもの、あとコーディネーターやコラボレーターの能力や運が非常にいっぱい入ってくるプロジェクトですね。自分が若い頃、舞台を作っていたときには、どうもそういう偶然が入るのが嫌でした。例えば、舞台ってライブだから、俳優が間違えることもあるし、観客席でずっと咳が止まらない人がいるとか、コントロールできない部分が非常に多いです。ただ、舞台を作っていくときに集中すればするほど、照明や音響が完璧じゃないと気がすまなくなってしまいます。そういう強迫的な、工芸的な態度になっていくのはなかなか苦しいんですね。幕が開いて観客が舞台を見ていても、そこで起きていることよりもリハーサルでやってきたことをいかに完璧にできるかに注意が向いてしまいます。これはどうなんだろうとある時期から考え始めました。そこで起こったことよりも、稽古でやってきたことの答え合わせを本番中にやるのは演劇じゃないなと思うようになりました。それをやるなら、映像や映画の方が当然強いわけですね。編集できちゃうし、駄目なところはカットできちゃうし、そもそも複製なんだから。じゃあ演劇にしかないことは何かというと、そこで今起きていることですね。だから自分はそういうプラットフォームを作って、俳優や観客が今何をやっているかについていく方がいいと考えるようになりました。そうすると、他の人とコラボレーションしたり、誰かを招いて何かをやってもらったりするのが格段にやりやすくなります。しかも自分が興味を持ってついていけるようになります。フレームがあってプロジェクトとしての方向性もありますから、じつはこうしてほしいというディレクションがないこともないです。だけど、参加してくれた人がどのくらい引き受けてくれて、その人なりのジャンプをしてくれるかに僕は興味があります。それについていって、「あ、こういう展開があるんだな」とようやく受動的になれるようになりました。舞台はもういいかなと思って止めちゃったのも、そこが大きかったです。つまり僕の場合、舞台では、演劇にも関わらず全然「今、ここ」に向き合えないからです。それがこういうプロジェクトをやると、「今、ここ」に集中できるようになるし、そして誰よりも自分が学べます。いい意味で、そういう余地や遊びみたいなものがでてきて、揺さぶられたりしながら学ぶというのは非常に面白いですね。そういう意味では、最近キャストを選ぶこともやっていないです。キャストってやっぱり自分が仕事したい人や、やりやすい人って当然いるわけですよね。でも田中沙季さんが連れてくる人は、ひょっとすると僕が選んだら途中で切っちゃうような人を平気で選んでくるわけです。「これはちょっときついな」「これ自分の手に負えるかな」みたいなケースは当然あるわけです。ただ、そういう人を容赦なく連れてきてくれるから、キャスティングのディレクションは田中さんがやっています。そうしないと不安とか怖さとかがやっぱりありますから無意識に編集して切っちゃったりするんですね。それをだんだんやらなくなったり、思いがけず揺さぶられたりするのは自分として気に入っていますが、場合によっては作品の質を落してしまうこともあります。それでも、作品として見たときはクオリティは低くなるかもしれないけれど、プロジェクトとしてみると、じつはそっちの方がいろんなことが起きていて、ずっと面白いというのは確かにあります。僕はその可能性に賭けています。 


田中沙季(以下TS):《戦争画ヘテロトピア》以外のプロジェクトでも、作品を作るまでのプロセスで偶然を呼び込むとか、予想していなかった出会いを招くとか、そういう場面がたくさんあります。それに関わってもらう人たちに何をお願いするか、どう振舞ってもらうかというときに、高山さんからのフレームはもちろんありますが、それが分かるようで分からないようなときが結構あります。人によっては、プロジェクトによっては最初の段階で躊躇してしまう方もいます。そういう意味で言うと、《戦争画ヘテロトピア》は、共通のプラットフォームのように関わってもらう人々がリサーチを取っ掛かりとしてみんなで動いていけるので、そういうのはいいと思いました。《東京ヘテロトピア》を始めた時はそれが逆で、リサーチをすごくやって、その厚みから作品を豊かにしていくような気持ちでやっていました。ただ、リサーチの質自体が決してプロジェクトの豊かさに直結するとはいかないというのがだんだん分かってきました。やっぱり場をひとつ新しく作って、そこに関わってもらう人たちと一緒にやるとなったときに、リサーチはやっぱりいいなと改めて思いました。短期間だったしウェブ上ではあったんですけど、戦争画はまずいろんな国や広がりがあって、リサーチがいろんな人が関わるプラットフォームとして機能するというのがすごく面白かったです。最初に高山さんが《ヘテロトピア》をやるとなったときに、「何人かの作家に関わってもらって、いろんな場所にまつわる物語を書いてもらう」くらいの段階がありました。「もしこれが東京でできたら、ゆくゆくはアジアの作家にも関わってもらって、文学運動みたいになっていったらいいね」という話が確かありました。ワリスさんの詩をきっかけになんとなく台湾から始まって、今回《ヘテロトピア》がアジアに目線を向けられたという意味でも、《ヘテロトピア》としての何か新しい段階みたいなものをひとつ進められたこともよかったなと思います。 


KS:《マクドナルドラジオ大学》プロジェクトで教授たちがレクチャーを行うときに、自分の物語を上手く語れる人が多い印象を受けました。実際には自らの声を出せないような人たちもいると思いますが、自分のことが雄弁に語れる人とそうでない人との違いという部分に対してお聞きしたいです。 


TA:じつは制作プロセスの中で、そこが一番大変な部分で、雄弁に語れる人が自分のことをぜひ知らせたいと言って参加してくる場合があるんですけども、そういう人の授業は、語弊もあるかもしれませんが、じつは演劇のパフォーマンスとして見た時にあまり面白くなかったりします。だけど例えば中島幼八という方は、僕は《マクドナルドラジオ大学》の中でも屈指の「教授」じゃないかなと思っていますが、中島さんは「こんな話をして面白く思ってもらえる人がいるのか」みたいに疑問を持っていました。つまり自分がすごいレクチャーをしているとは全然思ってないのですね。これはパフォーマンス、あるいは演技というものにおける個人的な趣味の問題もありますが、「出たくないんだけれども」と躊躇しながらも勇気を持ってやってくれる方がいいですね。なので、最初からそういう人が雄弁に語れているかというと、そうでもない。むしろ聞き書きや、インタビューを繰り返すことで、ちょっとずつまとまっていきます。そういう作業を通して、場合によっては10ヶ月かけて1個の授業を作ったりします。最終的には雄弁に聞こえた方がいいと言えばよくて。むしろ難しいのは、最初から雄弁で、あるいは表面的に面白いものの方が苦労するということです。ほとんどないけど、最終的に「これは今回入れられないな」と断る場合がたまにあります。授業とはいえ、演劇のパフォーマンスだという面もあるから引き裂かれている。その間で授業らしきものを作っているという感じです。 


TS:語りで言うと、《マクドナルドラジオ大学》のレクチャーは、経験を一個のレクチャーにしてもらっています。《ヘテロトピア》では、例えばリーガでは、作家本人も行かない状態で書いてもらったのも結構あります。今回の《戦争画ヘテロトピア》で私が一番驚いたのはやっぱり詩の力です。アジアの難しい歴史を扱う時にどうバランスを取るかという話にも関わると思います。今まで《ヘテロトピア》では、少しエンタメ寄りの物語を使っていますが、観客が体験するときに、詩は唯一難しさとか複雑さとかを受け止められる形式だと改めて思いました。詩は、難しさを正面からいかないで、最後痕跡も残せるということにとても驚きました。とくに香港の詩を書いてもらったときに、作家の方と何回かやりとりしていくなかで、日本語に翻訳する時に意味が分からないところが何箇所かあって、翻訳者が作家に直接聞きました。それを説明してもらった時に初めて分かったこともいくつかあります。だから難しい歴史を扱うときのバランスというのは、今回のことで言うと、もう作品の形式で既に応えているなと思いました。詩を朗読した声が観客にどう届くかまでは分からないですが、複雑なものを詩人の方が今回は全部引き取ってくれました。何かしらの希望を持って提示しているわけなので、そのうえで改めて詩の力ってすごいし、そういう歴史との向き合い方も、観客から起こる何かの運動も、プラットフォームとして利用できればと思います。
私は、今回タイトルが決まった時に、収蔵庫はいっぱいあるから、いろんな美術館からどんどんオファーがあると思ったら、なかったです。最近、美術館でやることも増えて、エデュケーション担当の人とも話す機会がありますが、そういう側にいる人が詩の力をもっと利用すればいいなとも思いました。アジアの難しい歴史を扱う時に、最後作る側も「これでいいよね」と納得するのはやっぱり作品だと思います。観客からの体験を向上するとか、そういうトータルでどういうふうに作品を体験するかというのを考えていくためには、詩の力を受け止めてくれる人がもっと増えるべきだと思いました。


金秋雨(以下JQ): 今回の戦争画についての展示は、残念ながら東京国立近代美術館では展示できなかったですけれど、昨年9月にMisa Shin Galleryで展示されました。その展示の仕方はとても独特でしたが、高山さんが今回の展示について考えたことを教えてください。 


TA:僕個人の傾向とか、資質とかと関係してくると思います。今回はイメージを出さなかったんですよね。わりと最近、とくに年齢を重ねてきてるせいもあるんですが、舞台をやってる頃は、舞台上にすごくいいイメージとか、強いイメージをおきたい、あるいは演技にしても、強いイメージを喚起するような、演技それ自体が強く機能するようなイメージを求めていたと思うんです。そういうものを一生懸命作ろうとやってきた面もあったけれど、ところがだんだんどうも自分はそっちの方じゃない、資質としても、強いイメージを作るっていうことにそれほど向いていないと思うんですよね。 演劇界とか美術界とか、コマーシャル業界とか、商品の資本主義の世界でもいいんですけども、とにかく新しくて強い、そして面白いイメージを次から次へと生産しないといけない。その競争が僕らが生きてる世界だ、っていうふうになっているから、どうもそこから意識的に降りたい、ドロップアウトしたいっていうふうに思ってる面もあります。
だから、世界にもう一つ新しいイメージを作ることに対して、ちょっと躊躇があるんです。やるとしたら、相当注意してやりたい。あるいは、引き算するような、イメージを作らないような方向で。人の頭の中にイメージがわいちゃいますから、無理なんだけどね。でも、せめて展覧会場では、イメージがないようなものをやりたいとは数年前から考えていて、今回それが結構うまくできて、QRコードが小さく置いてあるだけで、だいぶすっきりしてきたぞっと嬉しく思いました。
先日の金沢21世紀美術館では逆で、僕は空間をデザインしてないのですが、イメージでいっぱいの空間ができて、あるとやっぱり楽しいんですけど。だけど、何かもうちょっとこう引いたところで、勝負できるような形をやっぱり模索したいなって、ずっと思ってるんです。観客が来たときに、そこで何らかのイメージが作られる。お客さんの目や感覚や脳みその中で。我々がイメージって言ったときに、観客によって作られているという点が抜け落ちるんですよね。
どうしても舞台上のイメージ、あるいは作品の中のイメージというものだけが、我々が扱うイメージだっていうふうに思われてしまう。ところが、観客の中で作られるイメージとか、認識のあり方とか、そういったものも作品の一部というよりは、そっちの方がむしろ実質なんではないかという問いが僕の中にはずっとある。そのイメージをどういうふうに持ってもらうか、それがいわゆる演出とか、ディレクションなんだっていうふうなことは昔から考えているので、だんだんとそこに近づいていってるなという気はしています。ただお客さんが、最終的に何をどういうふうにイメージしてるのかっていうのは、じつは僕が関知できないことですし、コントロールもできないことなので、そこの部分に関しては、こうあってほしいとかこうしようみたいなことはできるだけ言いません。ただ、全体のフレームと大枠のディレクションを通して働きかけるというのはもちろんあります。

 


JQ:今回は日本のギャラリーで展示しているのですが、文章の作成には海外の作家が韓国とか、タイとかから参加していました。例えば、同じ戦争画でも、日本以外の鑑賞者に向けて展示してみたいですか。 


TA:そうですね、そうなればいいなと思って作ったのはもちろんありますけど、僕はアジアの国でほとんど活動できておらず、韓国のソウルで二回と台湾の台北と台南で一回ずつ、それから香港で一回くらいしか展示したことがなくて。いろんなとこにコレクションがあって、プロジェクトをどんどん展開していくっていうふうにはどうもならない。そういうのもあって、今長崎でやっているプロジェクトについては、自分たちでやるしかない、何かそういうコネクション作りから始めるために、《長崎ヘテロトピアカレッジ》を考えて、そういう運動というか、動きを始めたいなっていうのがありますね。
これはアジアの問題なんじゃないかなって僕は思うんだけど、続かないんですね。逆にヨーロッパってすごく粘り強く付き合ってくれるところがあって、彼らの強みだと思うんだけど。だからもう15年ぐらいずっと何か一緒に仕事している人がたくさんいて、ステップバイステップで継続的なプロジェクトをやりやすい。
なんでアジアは継続しないのかについては制度も関係していると思います。あとお金の回り方も、つまり一からお金を集めなきゃいけないのは大変じゃないですか。お金の集め方も非常に複雑で、集まったところでそんなにお金がなかったりするから単発で終わるんですよね。これは変えたいなっていう気持ちもあって、長崎のプロジェクトではお金の流れも改善していきたい。まだ、できるかどうか、分からないですけれどね。でも継続的に、何かプロジェクトが展開できるネットワークなり、プラットフォームなりを自分なりに模索したいなって考えています。

 
JQ:先ほど田中さんも話していましたけれど、ヘテロトピアでは最初はアジアに焦点を当てていて、アジアの中で何か運動が起きたらいいなって話もありました。今回戦争画から、いろんなアジアの国と関係をつくったわけですけど、これからはもっとアジアや日本の中でも何か活動があったらいいと思ってます。
例えばヨーロッパではマクドナルドにはあまりお金を持ってない人が行くような、階級差が見えやすい側面がありますが、逆に日本では見えない階級とかがいっぱいある。そういった見えないところを高山さんの作品を通して見せるようにすることが可能ではないかと思ってます。 


TA:それをずっとやりたいと思い続けて、今あんまりできてないんですよね。もちろん、例えば国際交流基金だとアジアでやりやすいかもしれないけど、僕はどうもそういう枠に1回も呼ばれたことないですからね。だったらもう自分で作るしかない。どうも美術館からも呼ばれない、劇場からはもっと呼ばれない。これは僕の方が発想を変えない限り、もう呼ばれることはないだろうというふうに思ってます。本当に僕はやりたいので、ずっと待っているわけにもいかない。だから別に彼らを100%否定するわけでは全くないんですけど、今まで国際交流基金とかが作ってないネットワークってあると思うんですよね。それにチャレンジできないかとは、やっぱり考えますね。そうすると、僕がやりたいことも、そのネットワークの中でできるかもしれない。他の作家とかね、キュレーターとかが、そこで何かまたできるかもしれない。そうすると違う流れが継続的に起きてくる可能性もあるんじゃないかなと思っています。

 
JQ:今回私たちもリサーチャーとして参加して、実際はリサーチしながら色々勉強させてもらいました。今まで「東京ヘテロトピア」を見に来ていた人も、鑑賞者としてではなく、運動の参加者と感じている人が多いかもしれません。高山さんは多分そういう上から下への組織的プロジェクトを展開していないと思いますが、観客から実際に自分たちで何かやりたいって言われたことはあるのですか。 


TA: そうなったらいいなと思っています。本当はそれが理想で、一番いいのは、自分で勝手に拡張していってくれること。
もう十二、三年前になりますけれども、《完全避難マニュアル》というプロジェクトをやったときに、僕らが29ヶ所の避難所を作ってオープンした。それにお客さんがたくさん参加してくれてコミュニティみたいのができたんですよ。そしたら、彼らは自分たちの避難所を自分たちで作り始めたんです。あれは良かった、一つの理想的なモデルだなというふうに思いましたね。そのときに、なぜ2010年にああいうコミュニティができて、自分たちで新しい避難所を作ろうみたいな動きが可能だったのか、と考えます。今はそれが難しい。これは推測なんですけど、あのときにコミュニティができたのは、Twitterのおかげだったんですよ。まだTwitterが始まって、何て言うかな、いい空間だったんですね。でも、今はコミュニティを作るよりもむしろコミュニティをすごく狭く固定化して、分断を煽っていくようなものとしてソーシャルネットワークが機能している。
だから、ソーシャルネットワークを使わないやり方で、あるいは使うとしても今とは別のやり方で考えていかないと、じつは簡単に繋がりやすい世界であるがゆえに、似たような参加者同士が固まってしまい、新しい何かが出てくることが難しくなっているんじゃないかなというのがここ三、四年の印象として強くあります。だからと言って、Twitterの代わりになるものを僕らが作ろうとすると、これはちょっと難しくてね、多分プログラマーじゃないと駄目なんじゃないかなと思います。これはもう自分の限界で、プログラムを自分で書けないとできないんじゃないかな。

 


中谷圭佑(以下NK):先ほどアートプロジェクトを通した学びの話や、日本やアジアにおける状況の話があったと思います。それらを踏まえて、ゼミのレクチャーでお話されていた高山さんの今後の活動、特に《長崎ヘテロトピアカレッジ》を出発点とした《アジアンシンクベルト》プロジェクトの話について、もう少し深くお話を伺えればなと思います。
自分は元々、現在所属しているキュレーション専攻に来る以前は都市建築デザインを専攻していました。その当時、イギリスの建築家、セドリック・プライスが1964-66年にノース・スタッフォードシャーの廃線になった鉄道網や道路を舞台に教育施設のネットワークを計画した《ポタリーズ・シンクベルト》からインスピレーションを受け企画された、Port B.の《ヨーロピアン・シンクベルト》プロジェクトおよび《マクドナルド放送大学》の取り組みを知り、こんなやり方、こんな可能性があったのかと非常に感銘を受けました。
というのも、プライスという建築家が自作がほとんど無いアンビルドの建築家だった、ということがまさにあらわしていることだと思うのですが、《ポタリーズ・シンクベルト》というアイデアは、大学施設という中心的で排他的な権威性に対抗するある種の方法として、いかに流動的、仮設的なかたちで、教育をそのエリア、そのサイトにインストールして開いていくかということが大きなポイントであり、実際に建築を建てることがどうしても求められる建築家にとっては自己矛盾を抱えるようなことだったわけです。このプライスの考え、問いに対してアートプロジェクトという形で答えた高山さんの活動に元々建築を志していた自分としてはハッとさせられました。
このようなアートプロジェクトのあり方は、日本の状況を変えていくうえで効果的なのではないかと思っています。また、日本の中での話に終始せず、Port B.の活動が、東シナ海、南シナ海へと向いて、《アジアンシンクベルト》の話にどんどん広がっていくことも、ある種、相互輸入的な関係性の構築の可能性があるという点において重要なのではないかと考えています。
ただその一方で、これから展開されていくであろう《アジアンシンクベルト》が、長崎に新しくできるスタジアムに端を発して、長崎を拠点に展開されるプロジェクトだというところは、ヨーロッパで、そのエリアに対するまったくの異邦人という前提のうえでプロジェクトを主導していった《ヨーロピアンシンクベルト》とはまたちょっと違ってくるのではないでしょうか。ともすれば、《アジアンシンクベルト》や、先ほどお話を伺った《戦争画ヘテロトピア》といったプロジェクトを進めていくとき、その活動は不本意にも自らが別の中央になりかねない危険性を多分にはらんでいるかもしれません。
負の歴史の上に立ちながら、アートプロジェクトを通してプラットフォームを作っていこうとするとき、高山さんとしてはどのようにバランスを取りながら活動をされているのでしょうか。 


TA:セドリック・プライスっていう人は本当に面白いなと思います。アンビルドの作家で、建築家だけれど生涯2つしか建物を建てていない。しかも1つは鶏小屋だったりね。それでセドリック・プライスのプランを色々見ていくと、これは建築家、磯崎新の著書『建築の解体 —— 一九六八年の建築情況』に収録されているセドリック・プライス論の表題が、「システムのなかに建築を消去する」というものなんですね。僕はこの文章、タイトルが好きで。僕がやりたいことは、イメージを世界に付け足すのではなく、イメージを消去するというか、変容させる方だなあと思ったんです。もともと「演劇を都市の中に隠す」とか言っていたんですが、別の言い方をすると「システムのなかに演劇を消去する」。そういうことをやれたらいいなと思ってます。
「これ最初演劇だったらしいんだけど」って後の人がお喋りするぐらい、「どうも今は跡形もなく街のシステムになっちゃっているね」みたいな、それでいいと思っているんですよ。だから、著作権の問題とか、自分が作ったとか、そういうところではなく、もっと公共的なものや人の人生の中に最終的には溶け込んでいきたい、あるいは都市や社会の中に機能として残るようなものができたらいいなと常々思っていますね。
そういうプロジェクトをできるだけ発明して展開していきたいなと思って日々やっているんですけど、どうしてもやっぱり最初は難しい。例えば、最初からプロジェクトを《ヨーロピアンシンクベルト》とか《アジアンシンクベルト》っていうふうに名づけること自体、非常に暴力的だし、なんていうのかな、じつはすごい作家性が強いんですよね。
もっとうまくできるかなっていうふうに色々考えて、いくつかそういう試みもやったんですけど、どうもね、結果的にうまくいかないんですよ。プロジェクトとしても今ひとつ立ち上がらないみたいな。僕は「メディア・パフォーマンス」という試みを、前橋で1回、大分で1回、それから秋田で2回やったんですけども、どうも最初からプラットホームを作ることを意識しすぎちゃったのか、今ひとつジャンプしなかった。必要なのは、小さくてもいいから、何かとんがったモデルを作っておくことなんです。その塩梅が難しいんですよね。
だから、あんまり最初から社会性や公共性とかに気を遣いすぎて、ちょっと遠慮したプロジェクトにしてしまうと、そもそもプロジェクトとしても成り立たないっていうのが、これは僕の経験から思います。最初は非難轟々になるくらい強いものを出してしまったほうが、後々それがプロジェクトになった際に、嘘から出た誠みたいに勝手に走ってくれる。僕の名前とかね、あるいは誰が考えたんだ、みたいなことは消しやすいっていうか、自然に消えていくだろうというふうに思っていますね。
どうも最初から、個人化とか中心化を恐れすぎていると、なんかね、毒にも薬にもならないものになってしまうっていうのがジレンマです。だから今はもう、むしろ僕は社会のためになることなんかを諦めちゃっていて。毒にもなれば薬にもなるっていうものを作っておいた方がいいみたいですね。あとは誰かがそれを使えばいいよというわけです。やっぱり順番かな、最初にそういう爆発がないと、何も起きないみたいな。

 


NK:じつは今日の高山さんのお話を聞きながら、もう既にアーティストのリストが決まっていて、それを渡されてじゃあこれキュレーションしてくださいね、という自分自身の経験を思い出していました。例えばそういったときに、何か予測不可能性みたいなものを大事にしていきたい気持ちはもちろんあって、そこにプロジェクトとしての面白さは絶対あると思うんです。でも同時にさっき高山さんがおっしゃられたように、ある程度最初に決めないといけないことが出てくるわけじゃないですか。しかも例えば、今回の戦争画みたいなサイトって、心地よい関係性じゃないものも、ある種明確な敵対性を持った人が介入してくる可能性が多分にあるわけですよね。
こういった予測不可能性みたいなものは、コンセプトとしては受け入れたいんだけど、プロジェクトとしてはある程度マネジメントしないといけない部分だったりするとも思います。その辺も含めて、どういったバランスでフレームワークを作るのか、どこまで手放すのか、というのはキュレーターとしての自分自身の葛藤でもあって、だからこそもう少し深く、高山さんのお話を聞いてみたいなと思います。 


TA:まだ《戦争画ヘテロトピア》みたいなほうがやりやすいっていうのがあって、というのは、敵対していたとしても相手は話がわかる人の可能性が高い。つまり話し合えば解決可能だっていうふうに僕は信じているし、だからやるんですよね。ところがね、例えば相手がマクドナルドとかだと、これはもう難しいんですよ。そもそもの目指すところが違う訳だから。まあこれから話すことも後で編集でやっぱカットしなくちゃいけないのかな、とかね。そういう配慮をしてしまうぐらい。
マクドナルドは、例えば《マクドナルドラジオ大学》、あるいは《マクドナルド放送大学》を、僕らが知らない間にもう商標登録していたりするわけです。まあ資本主義の世界で勝ち抜いている人たちですから。そういう人と、本当に矛盾の中に入っていかなくちゃと思ってね。頑張ってやっていきますけれども、商標登録も僕らに内緒でやっているんだ、とか、やっぱり驚いてしまうわけです。そんなことは僕らは考えもしないでしょう。そういう相手と、どこまでやればいいんだろうって、もう本当勘弁してくれっていうふうに思っちゃうときもあるんです。
ただ実際、彼らが作っている雑多な人たちが集まる空間、そこから学ばなきゃいけない部分も大いにあって、本当すごいと思うんですね。だから粘り強くやっていかなくちゃいけない。それでやっていくと、いっぽうでもう少し純粋に、難民問題とか、芸術の問題を考えている人からは、すごく批判されたりします。そういう批判があった方が僕は健全だと思っているし、こっちは確信犯として戦略的にやってるわけだから、それはそれで全然いいんですけど、なんていうのかな、ちょっとやりきれないようなところもあったりします。こっちはこっちで真剣にやっているんだけどなあ、みたいなね。だけど、やっぱりそういう矛盾が常にあって、自分が望まないノイズがプロジェクトの中の半分以上になるときついかな、そういうものが支配的になってしまうと、やっぱりさすがにうまくない、やめた方がいいかもしれない。まあ半分以下で、その辺バランス取りながら何とかやれるかもしれないという状況だったら、頑張るかな。感覚的なことしか言えずに申し訳ないですけども、ただストレスはやっぱり溜まりますよね。

 
NK:その積み重ねの上に感覚ができていく、というところもありますか。 


TA:その辺はもう全然答えはない。バランスの取り方も含めて試行錯誤や過ちをおかしながら、わからないから何とか続けている。逆に言うとそこはセドリック・プライスとかがやっていない部分なんですよね。
プライスはプランを作って投げて終わりだから。それを社会に実装していくときの摩擦とか矛盾とか、葛藤をやっぱり抱えて、そこは頑張って継続していきたいと思ってます。 


NK:ちょっと話は変わってしまいますが、もうひとつ、《アジアンシンクベルト》に対する興味があります。《ヨーロピアンシンクベルト》は大陸として地続きであったのに対して、《アジアンシンクベルト》はむしろアーキペラゴ的な、海域を強く意識するものになっていくのではないかと考えています。昨今、水際対策という言葉もよく耳にしますが、海で隔たれているということが、実際の移動もそうだし、心理的にも、地続きであることよりもずっと遥かに距離があるようなことなんじゃないかなと思っています。そこに着目してまれびと(稀人/客人)のように介入していくと、地続きだからこそ表出していた問題とはちょっと違う、海域の接地点でそれぞれに存在しているはずだけど見えていなかった関係性、敵対性みたいなものが見えてくるのではないでしょうか。
こういった海域みたいな場所に対する意識というのは《マクドナルド放送大学》のときの「エーゲ海上に浮かぶ船をマクドナルド3号店としてオープンする」みたいなアイデアもあったと思うんですけど、その頃から海という場所を意識していたことなのでしょうか。 


TA:僕はそもそも埼玉生まれで、今も埼玉に住んでいるから、海がないんですよね。だから、やっぱり海はいいなあ、と思います。海の近くの街とかって単純に憧れますよね。全然違うと思います、心の持ちようが。それはもう個人的な憧れみたいのは、やっぱそういうところから素朴に始めることが多いから、いいなあ、みたいなね。そういうところからいろいろ考えていくと、そこにはもしかしたら道無き道みたいなものが、僕の知らない道がたくさんあるだろうな、とかね。
昔はお坊さんとか、商人とか、あるいはキリスト教の宣教師とか、みんな船で行き来していたわけです。あと物もそうですよね、砂糖が入って来たりとか、絹が渡ったりとか、場合によっては奴隷とか、そういうのもみんな船で運ばれてきている。思想とか、宗教とか、ある種の芸能も海から来ているわけですよね。
せっかく演劇とか芸能みたいなことに関わっている人間なので、それをちょっと見てみたいという憧れが強いです。東シナ海と南シナ海は、多くの人が行き来して、様々なものが生まれていた場所だと思うんですよ。海賊とかは国境関係なく行き来して、何かそういう自由さ、道さえも超えて海を跨いだ活動をしてみたいですね。
ただ一方で、例えば戦争のときはそれこそ南進していく、南の方に行くルートにもなっていたわけです。だから、なかなか自由でいいなあ、と言ってばかりもいられないんですが、でも、毒も薬もどっちもあるっていうのはいいことです。いろんなことを考えられる場として、東シナ海、それから南シナ海はいいなと思います。

「世界にもう一つ新しいイメージ」を作らない

システムの中に演劇を消去する

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