サエボーグ LIVESTOCK
- sumitomolab
- 2021年7月23日
- 読了時間: 3分
長尾優希
展覧会名:LIVESTOCK
会場:PARCO MUSEUM TOKYO
会期:2021年6月8日~6月20日
ラバー製の着ぐるみを使う造形作家・パフォーマンスアーティストのサエボーグの個展「LIVESTOCK」は、≪Pigpen≫≪Saeborg Land≫の2作品を中心に展示し、上演時の映像を公開してもいる。わけてもDARK MOFOにおける後者のパフォーマンス映像は今回の個展で初公開であるという。
入口を抜けるとすぐに、私たちは檻にはいった巨大なゴム製のブタに迎えられる。≪Pigpen≫(豚小屋の意味だ)というこの作品がフォーカスするのは生命の誕生のシーンである。この巨大な母ブタから子ブタが次々と産まれてきて、母の乳に吸い付くのだ。焼き印ですでにナンバリングされている子ブタは搾取されるために産まれてきたのであり、だからこそ晴れやかさではなくグロテスクな部分が強調される。

ここで思い出されるのは、フーコーが「生かし、死ぬに任せる」権力として描き出した生政治の概念だ。私たちの生そのものを囲い込むこの権力のありようを、フーコーは2つの極の交錯として見る。一方で一人ひとりの個々の身体に働きかけるような「規律権力」があり、他方で全体としての人口の管理・調整を目指す「生権力」がある。そしてこの両極は「性」において交錯するのである*¹。羊飼いが羊を飼いならすことをモデルにした「司牧権力」と呼ばれるこの概念は、家畜の管理という含意をもともと持っている。生政治の下で私たちは、ちょうど個展のタイトルが示すとおりにLivestock(=生ける資産)なのである。
生がコントロールされて利用されるという暗い見通しにもかかわらず、個展はペシミズムに貫かれているわけではない。むしろ、ほとんどのサエボーグ作品を特徴づけるのはポップでどこか祝祭的な明るさである。事実サエボーグは、生政治がまさにターゲットにするセクシュアリティの領域で、その権力を倒錯的に歪めてしまうようなのだ。

奥に展示されているもう1つの作品≪Saeborg Land≫がフィーチャーするのはラバーでできた家畜の住む農場と、そこで行われる搾取と屠殺の光景である。毛刈りで恥部が露わにされる「サエシープ」、凍結精子を流し込まれてつねに妊娠を維持させられる「サエビーフ」、屠殺され内臓を抉り出される「サエポーク」…。こうしたラバー製のキャラクターは着ぐるみで、中には女性のパフォーマーが入っている。彼女らは力なきものに変身し、こうした暴力を再演するのだ。
このことを通じて引き出されるのは、しかしエロティシズムであり、逆説的にも快楽ですらあるだろう。ラバーに包まれるというフェティッシュに加えて、屠畜のあとで始まるのは農婦「サエノーフ」のストリップであり、死んだはずの家畜たちはむっくりと起き上がってサエノーフと共にダンスに興じるのである。それはジェンダー以前の世界へ享楽によって超越することだ。フーコーは「主体化=服従化」という語で、解放を求めて声を上げるなどといった主体化による抵抗が権力を再生産してしまうことを指摘したが、サエボーグの作品は、エロティシズムを介して生政治そのものを無化してしまうような、たんに声を上げるのとは別なる抵抗のありかたを示すのである。
奇しくもコロナウイルスの猖獗する現状を、フーコーの語彙で説明することは容易い。国家に命令されるのではなく、あくまでも自発的に、疾病の蔓延を防いでいる*²。だから私たちはマスクをして街に出る。そうしてPARCOのギャラリーに行くと、サエボーグも同じく、しかしゴムによって、過剰な仕方で、身体を覆い(mask)、そうすることで日常の風景を変質させてしまうのだ。
*¹ ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』(渡辺守章訳、新潮社、1986年)。
*² 小泉義之『災厄と性愛 小泉義之政治論集成Ⅰ』(月曜社、2021年)、40-42ページ。

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