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BEST 10 Exhibitions in 2020

  • 水戸芸術館現代美術ギャラリー/Art Tower Mito、「道草展:未知とともに歩む」/Michikusa: Walks with the Unknown

  • アーティゾン美術館/Artizon Museum、「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×鴻池朋子 鴻池朋子 ちゅうがえり」/Tomoko Konoike FLIP

  • アーツ前橋/Ats Maebashi、「廣瀬智央 地球はレモンのように青い」/Hirose Satoshi : The Earth is Blue Like a Lemon

  • 国立歴史民俗博物館/National Museum of Japanese History、「性差(ジェンダー)の日本史」/Gender in Japanese History

  • 世田谷美術館/Setagaya Art Museum、「作品のない展示室」/Galleries Without Artworks

  • 水晶山(韓国釜山)/Sujeong Mountain, Busan, South Korea、「Time to Ramble」

  • 国立国際美術館/The National Museum of Art, Osaka、「ヤン・ヴォー ーォヴ・ンヤ」/Danh Vo oV hnaD

  • 東京都写真美術館/Tokyo Photographic Art Museum、「エキソニモ UN-DEAD-LINK アン・デッド・リンク インターネットアートへの再接続」/exonemo: UN-DEAD-LINK Reconnecting with Internet Art

  • 上田市立美術館Ueda/ City Museum of Art、「農民美術・児童自由画100年展」/NOMIN-BIJUTSU JIDO-JIYUGA 100th EXHIBITION

  • 横浜/Yokohama、「ヨコハマトリエンナーレ2020  AFTERGLOW―光の破片をつかまえる」/Yokohama Triennale 2020 “AFTERGLOW”

(開催場所英語名アルファベット順)

撮影:田中直子

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「道草展:未知とともに歩む」 (文:秋雨)


道草、道ばたに生えている草、目的地に達する途中で、他のことに時間を費やすこと。
 ロイス・ワインバーガーの遺作を目指し、水戸芸術館へ揺ら揺らと2時間の電車の中、展示ホームページの「本展の見どころ」をチェックすると、「人間と環境のつながりを考える現代美術の展覧会」と書いてある。
 環境問題はいつも話題性が高く、われわれの身近にあるようで遠い。コロナでより一層、本来すでにバランス崩れの人間と環境の関係を壊し、人間はいつも通りの環境へ一方的にアクセスできなくなる。人間は常に地震、津波、火山、そして自然を恐れている。しかしわれわれはその恐怖を適度に認識できず、人間的活動が傲慢で、自然へ強制に介入する一方である。それを認知しない上で、環境とのつながりを語ることは困難だろう。
 露口啓二の作品《自然史》(2011~)の中では、東日本大震災の被災地である地域で撮影した、人間のコントロール外で繁殖する植物の風景がある。かつて人間の制御から解放され、完全なる自然でない不気味な環境へと進み、共生よりお互い制約しあう奇妙な光景となる。上村洋一の《息吹のなかで》(2020)は、彼が2019年から知床半島で行っていたフィールドレコーディングから作り出した体験型サウンドインスターレションである。彼は流氷の海でフィールドレコーディングを行った際に、暗闇の中で人間の世界の外側を感じ取った経験に触発され、流氷を伴う様々な現象を通して、人間と自然のボーダレスな生態系を模索していた。作家の身体、あるいは作家が体験していた自然は異なる形で観客と交差し、これも人間と環境のつながりの些細な未知性を考えさせる。
大学時代の後輩が近日銀座の狭いギャラリーで、牛乳パックを再利用した紙にプリントした写真の展示を開いた。彼女は自分と環境の関係性を、一枚一枚の紙と向き合い、問いかけ、躊躇する。写真を見るとき、後ろの距離を測らないと、他の観客にぶつかってもおかしくない程の小さなホワイトキューブだったが、観客は、きっと次に牛乳パックを見るとき、心に小さな揺らぎが起きるだろう。
山はいつも遠く、道草。


1.広辞苑 ページ 18872 
2. Kamimura Yoichi HP, http://www.yoichikamimura.com/works/Breathe_You.html,最終アクセス2021.02.11


「道草展:未知とともに歩む」 水戸芸術館現代美術ギャラリー
2020年8月29日ー11月8日
https://www.arttowermito.or.jp/gallery/lineup/article_5110.html

 

撮影:秋雨

「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×鴻池朋子 鴻池朋子 ちゅうがえり」(文:Yang Fang)


In this exhibition, one of the themes is "hunting and gathering," and visitors can see art that unravels the relationship between humans and non-human creatures. "Hunting and gathering" is one of the archetypes of human culture, so the works made from animal carcasses are childish and innocent on one side and hide the cruelty of natural law on the other. 
When I entered the exhibition room, I instinctively sensed a different kind of atmosphere that it was filled with something that was neither of the other worlds nor of this world, as if something unsettling, yet dense and certain, were occasionally passing by. Konoike’s work is often considered the product of frolic with mythology/gods, as the title, flip suggests, the significance of play to the natural growth of all things. According to Schiller's play theory, it is always through play that man becomes aware of the freedom of self and thus becomes truly human. In this exhibition, the expression of this slightly playful psychological quality leads the viewer into a dimension of exploration of self and nature. 

「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×鴻池朋子 鴻池朋子 ちゅうがえり」
アーティゾン美術館
2020年6月23日ー10月25日
https://www.artizon.museum/exhibition/detail/41

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撮影:Yang Fang

「廣瀬智央 地球はレモンのように青い」(文:秋雨)


 《空のプロジェクト:遠い空、近い空》(2013)は、廣瀬智央と前橋市の母子生活支援施設の子供たちが、空の写真を交換し合うことから生まれた作品である。遠くから見える看板は、アーツ前橋を尋ねる度に道案内をしてくれる。
空を見上げる感覚はとっても独特で、周りの空間が突然広く感じて、どこかの真ん中に置かれたような自分がいる。
 「自分らしくあろうとする力」あるいは「自分の存在を維持しようとする力」、スピノザはそれを「コナトゥス」、人間の本質と呼ぶ。初めてスピノザを知ったのが大学の三年の頃、哲学概論を担当する先生が主催した勉強会で『エチカ』を一ヶ月くらいで読み終えた。それまでの人生、人間の本質、世界にあらゆることの善悪について考えたことはおそらく寝る前に漠然と何回かあったが、特に答えもなく完結した。この莫大なテーマの答えを、廣瀬智央の展示空間で探せると直感した。
 レモンの優しい匂いが充満する美術館の中で、最初に目に映ったのが《無题(豆の神話学)2008》、内在と外在は透明に近い物質に曖昧に一見分断され、内在への思考をもう一度導く。普通の物事、普通の豆、冷静的に空中に浮かび、角度の異なる視線の前で違う様子を現す。廣瀬智央の作品は、生と死、人工と自然の調和に新しい視点を与え、多様なメディウム、方法での制作、持続的プロジェクトなどは、彼自身も含めた「循環」の複数のレイヤーへの問いかけかもしれない。豆は宇宙となり、またレモンに変わる。
匂いを尋ね、3万個のレモンの元へ行く。展示室にいることすら忘れるようで、レモンの上で歩き、地球の中で歩き、五感を研ぎ澄まし、さまざまなものを試し、そして再び自分自身に戻る。

1.廣瀬智央 地球はレモンのように青い、コンセプトブック、Book1、18頁
2.前掲書、6頁


「廣瀬智央 地球はレモンのように青い」アーツ前橋
2020年6月1日ー7月26日
https://www.artsmaebashi.jp/?p=14546

 

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撮影:秋雨

「性差(ジェンダー)の日本史」(文:松江李穂)


 この展覧会は日本史の中で構築されてきた性差(ジェンダー)をテーマに、重要文化財やユネスコ「世界の記憶」を含む280点以上の資料を用いて、古代から現代にかけて構築されてきた男女の社会的な立場の差を明らかしていくものだった。
 展示は文書的な資料に限らず、庶民の姿を写した巻物や絵、工芸品なども作品も展示されている。しかし美術の展覧会と異なる点は、歴史的資料や文書の解説を頼りに歴史的背景を「読む」ことが中心になっていることだろう。鑑賞者は、資料や作品の表面的な内容やイメージだけでなく、なぜこの資料が「性差」に関わるものなのか展示室を回って学びながら、当時の女性たちが残した日記や手紙、戸籍等の資料の中から、私たちは男性を中心に語られてきた歴史の中で見過ごされた女性の生に注目することになる。
 とりわけ目を引くのは「性の売買と社会」のパートである。このパートに用意された膨大な資料と研究内容は、中世から近世にかけて「売春」はどのように成立していたのか、「売春」がどのように近代に影響を与えたのか詳細に説明していた。一見華やかに見える遊女たちの中には、楼主にまともに食事を与えられない者や、性病で早死にする者も多く、非常に過酷な労働環境を強いられていたことがここで明らかにされている。 しかしながら現在の「売春」に対するイメージは、政治的領域から徐々に女性が排除され始めた近世以降、男性が女性を商品として売る人身売買的な色が強まったことで生まれたにすぎない。展示室では歴史資料をもとに、近世以前において遊女は自営業の一形態であり、一定の権利を得ていたという事実も伝えていた。果たしてこのような事実はどれだけ語られてきただろうか。売春だけでなく、かつて政治や経済などの面で日本の歴史の中に確かに存在していた女性たちの権利は、現在に至るまで曖昧な「伝統」という言葉によって無いものとされてきたのである。
 この展覧会は、歴史の中で女性たちがあらゆる権利を奪われていったこと、そして再び権利を取り戻そうと多くの女性たちの勇気や努力が存在しているのだということを歴史的事実とともに明示するものだった。会場には男女問わず多くの若い世代の来場者が訪れていたが、こうした若い世代によって作られていく日本史が、より良い「ジェンダー」を形作る道を進む原動力となるような非常に意欲的な展覧会だったように感じられた。

「性差(ジェンダー)の日本史」国立歴史民俗博物館

2020年10月6日ー2020年12月6日

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/press/p201006/

ヘッディング 1

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撮影:古川幹夫

「作品のない展示室」(文:松江李穂)


 世田谷美術館はコロナウイルスの感染防止に伴う臨時休館によって、予定していた企画展の中止を余儀なくされた。この展示はこうした内情や世界的状況を踏まえた上で、美術館の存在を見つめ直す契機として急遽企画された。
 本展示ではタイトル通り、作品を展示室に一切置かず建築的な空間そのものを観客に見せていく。美術館の設計は建築家の内井昭蔵によるものであり、観客は展示室の壁に掛けられた内井の言葉を読みながら建築と美術館のコンセプトを照らし合わせていく。
 印象的だったのは、エントランスを抜け回廊を渡って入った一番初めの企画室である。円弧状に広がった空間には4つの大きな窓があり、美術館外の公園の風景が一枚一枚切り取られて連作絵画のように並んでいる。中景のなだらかな地面の起伏が空間の曲線と呼応していて心地よい感覚を覚えた。作品保護のため普段は閉じられている窓も本展示では解放されており、自然光を室内に落としていて、建築を構成する暖かで自然なトーンの色彩や素材もよく見える。なるほど、確かに作品が置かれていないため純粋な方法で建築的空間を堪能できる。
 しかしながら、この展覧会は単に建築を楽しむだけのものではなく美術館はいかなる空間であるべきか?という問いを含んでいる。私はこの問いに対して、内井が掲げていた「健康な建築」という思想から考えてみたい。内井は「健康」という定義を多様な視点から捉え(自然との調和や、幾何学と有機、長命と短命のバランスが取れていることなど)、芸術や自然との接近を人間の健康へとつながるものとして積極的に掲げていた。しかし今日、人々が健康でいる(ウイルスに感染しない)ために、美術館は一時的に閉ざされ、予約制や定員制などの対策によってアクセスしづらいものに変わってしまった。
 こうした状況を踏まえると、本展覧会タイトルである「作品のない展示室」に含まれた意味合いを慎重に考える必要があるように思われた。もしも、今後ずっと展示室に作品が置かれなければ、果たして我々は本当に「健康」でいられるのだろうか?
 私にとって本展示はそうした視点をもたらすものだった。美術館とは、生権力に結びついた健康では管理され尽くすことのない、自由で多様に開かれた人間の「健康」を生み出す芸術との出会いの空間であるべきだ。この展示は美術館のあり方そのものを考える、コロナ禍における重要な展覧会だったのではないだろうか。

「作品のない展示室」世田谷美術館
2020年7月4日ー2020年8月27日

https://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/special/detail.php?id=sp00203

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撮影:松江李穂

「Time to Ramble」(文:チョ·ヘス)


 「Time to Ramble」 は韓国·釜山(プサン)の水晶山(スジョンサン)のアーカイビングをベースにした芸術散歩プロジェクトである。 観客たちは水晶山を歩きながら植物を観察し、美術、公演、植物図鑑、パフォーマンス、アーカイブ展覧会を通じて地域の新しい価値を発見する。
 水が乾かず清いという意味の水晶山は韓国の近現代とつながっている場所だ。日本による植民地時代には日本人のための公園が造成され、朝鮮戦争を経て避難民が形成した家跡と耕作地もまだ残っている。 観客たちはチョン·マンヨン(Manyoung JUNG)の《Sound Brear Stick》を持ってこの山肌を叩きながら歩く。このスティックとともに山を登ると、山に溶け込んだ地形と過去の痕跡をサウンドで感知することができた。散歩の時間、観客たちは山に設置されている作品に出会う。
 食経験デザイナーのカン·ウンギョン(Eunkyung Zebby KANG)の作品《Leaky Bagaji》では、観客たちが一緒に穴のあいたBagaji(韓国の大衆的なプラスチック桶)で水路を作る体験ができる。他にも、携帯電話が入っている透明な岩であるキム·ドクヒ(Doki KIM)の《Calling Nature》、ヘリウム風船を使って空気の流れとして消えた家を視覚化したキム·テヒ(Taehee KIM)の《その時と今、内と外》、村に関する記憶を収集してドローイングしたチョンジ(Jeonji)のカートゥーン《「ああ、」声が出るその時のこと》20点など、様々なメディアの作品を見ることができた。これらはすべて、人間が歴史と結びつけていく関係の方式と態度を環境と繫いで見せる。
 また、このような作品は、長い間この地域に住んでいた人々のインタビュー資料とともに再構成され、展覧会として作られた。 展覧会の場所は釜山草梁洞(チョリャンドン)にある1925年に建てられた日本式家屋で、現在韓国の登録文化財349号に指定されているところだった。
 ルーシー·リパード(Lucy R. Lippard)は「場所」について「自然、文化、歴史、イデオロギーが交差する地点」と説明した。彼女はアイデンティティと文化的価値の形成のために、場所の役割に関心を持つことが必要だと言う。現代の人々は移住や移動により特定の場所で生きを失っている。これは自然とのつながりを忘れさせ、歴史からの断絶と自我感覚から疎外されることから来る空しさを生み出す。このプロジェクトを企画したLAB Creative(Art Director : Changpa)は、地域、芸術、自然をキーワードに、まだ発見されていない空間を探索し、小さな物語を発見することで、このような時代に関係の感覚を呼んでいた。


参考 : http://www.heritage.go.kr/heri/cul/culSelectDetail.do?ccbaCpno=4412103490000&pageNo=1_1_1_1 (Kor/Eng/Chi)

「Time to Ramble」水晶山(韓国釜山)釜山草梁洞日本式家屋 
Summer Season Ramble 2020年9月4日―9月 6日 
Autumn Season Ramble 2020年10月31日―11 月1日 
Archive Exhibition 2020年10月31日―11 月7日
https://m.blog.naver.com/labc2018/222129619270 (Korean)

 

チョンジ(Jeonji)《「ああ、」声が出るその時のこと》-撮影:チョ·ヘス
イ·ジェウン(Jeun-LEE)《植物になってみよう》-撮影:チョ·ヘス.jp

チョンジ(Jeonji)《「ああ、」声が出るその時のこと》 (撮影者:チョ·ヘス)

イ·ジェウン(Jeun LEE)《植物になってみよう》 (撮影者:チョ·ヘス)

「ヤン・ヴォー ーォヴ・ンヤ」(文:松江李穂)


 ベトナム出身のアーティストのヤン・ヴォーの個展「ヤン・ヴォーーォヴ・ンヤ」は、本来別々のテーマや文脈で制作されたヴォーによる過去作や最新作を新たにインスタレーションとして組み合わせた展覧会だった。
 私が特に関心を抱いたのは、彼の作品の一部として用いられた手紙やポスターカード、彼の描いたカリグラフィーは英語の文字を読む行為を前提としていたものの、配布された作品リストやキャプションにも日本語訳が記載されていなかったことである。おそらく通常であれば、美術館の公共性の名の下に学芸員や翻訳家の手によって情報が読み取りやすいような配慮がなされるだが、ここでは鑑賞者に極力情報を与えず直接作品に対峙させるようになっていた。これは、美術館側のキュレーターが美術館の(ある種形式的な)公共性よりも、多様性を持つ鑑賞者の、その多様な価値観や知識、関心のみで作品を眺めてほしいというヴォー自身の考えを優先させた結果である。
 国立国際美術館のYouTubeチャンネルにアップされている展覧会についてのインタビュー内で、ヴォーは「私がアーティストになったばかりの時に、常に『情報から切り離された思考の作品を作ろう』と思いました。それは今も変わりません。(展覧会では)自分の初めてのパスポート写真、そして元米国防長官マクナマラの椅子のパーツと、マクナマラの孫と息子から提供された木を組み合わせて展示しました。それこそがイメージです。完全に情報から切り離されたイメージなのです」「鑑賞者の国籍は様々です。私が育ったデンマークや、生まれたベトナム、何度も個展をした米国、日本と多岐に渡ります。私は過去の経験から学びました。鑑賞者は単一の存在ではありません。作品をどう解釈するかはその人が持っている情報によります。物事の捉え方は社会的な地位や性的指向に左右されるのです」と語っている。こうした言葉からも分かる通り、国立国際でのヴォーの試みは歴史のイメージや断片を組み立てながらも、歴史に対する共通の理解や統一した歴史観に観客を誘導することを回避しようとしたものではないだろうか。
  歴史的記憶、出来事を想起させる作品を制作する作家は沢山いるが、ヴォーは観客に与える情報を制限することで多様な価値観やアイデンティティを持つ人間の分だけ記憶や歴史のイメージを屈折させる。このように歴史認識の主体を語る側ではなく、受け入れる側に置く彼の作品はやや特殊に思われた。この展覧会は、私たちに改めて歴史的記憶を共有する共同体/公共性を意識させ、歴史の「受容」という問題について考えさせるものであった。
 

「ヤン・ヴォー ーォヴ・ンヤ」国立国際美術館
2020年6月2日ー2020年10月11日
https://www.nmao.go.jp/exhibition/2020/danh_vo.html

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撮影者:福永一夫

「エキソニモ UN-DEAD-LINK アン・デッド・リンク インターネットアートへの再接続」(文:松江李穂)


 エキソニモは1996年に千房けん輔と赤岩やえによって結成されたアートユニットである。この展覧会は、独自のユーモアのある視点でインターネット・アートやメディア・アート作品を制作してきた彼らの24年間の活動を概観したものだ。
 展覧会会場では、インターネット空間と現実世界を繋ぐ象徴的な存在である5色のLANケーブルが空間をより分けるように床に伸ばされていた。観客はケーブルを踏まないように飛び越えたり、案内されるようにケーブルを辿っていきながら彼らの初期作品から近年の作品まで見ていくことになる。
 エキソニモはインターネットが登場した1990年代から現在まで、インターネットの進化とともに作品を制作し続けてきたが、一貫して「インターネット」「オンライン」という空間への接触を、非常にアナログで物理的な行為によって行っている。彼らは、電脳空間を不透明なものと考えるのではなく、現実世界の人間や物理的な影響によって作用する実体的なものであるという点を作品を通して示している。展覧会タイトルにもなっている〈UN-DEAD-LINK 2020〉は、2008年に初めて発表されたもので、3Dシューティングゲーム内でキャラクターが死ぬと、会場のグランドピアノが鳴り、3Dのゲーム空間と現実のオブジェが連動する構造の作品である。パンデミックによって世界中で毎日人が亡くなる状況と彼ら自身のそれに対する実感のなさが、改めてこの作品の新作という形で発表させる契機となった。
 コロナの影響で以前よりも「オンライン」という手段が日常化してきた状況で、我々の認識がとりこぼしてしまいそうになる不透明で抽象的な現実、とりわけ複雑化するインターネットという存在を、身近で実感できるものへと変形させるエキソニモの試みによって生まれたこの展覧会は、2020年に開催された展覧会の中でも一層リアリティのあるものだったように思う。

「エキソニモ UN-DEAD-LINK アン・デッド・リンク インターネットアートへの再接続」東京都写真美術館
2020年8月18日ー2020年10月11日
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3817.html

 

 

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撮影者:松江李穂

「農民美術・児童自由画100年展 」(文:田中直子)


「自分が直接感じたものが尊い」これは本展の主役、山本鼎の言葉である。鼎は1882年愛知県に生まれ、16歳の時に父親が病院を開業した事でここ上田市に移住した。東京美術学校やフランスで学んだ後、上田市に戻り農民美術練習所を作って大正中期から昭和初期にかけて「農民美術運動」を行った。また鼎は子供の絵に注目し、子供に主体的に絵を描かせる「自由画教育運動」を提唱した第一人者でもある。「農民美術・児童自由画100年展」はそんな2つの活動に着目した展覧会である。
 鼎は画家である一方で、社会芸術の民主化、農民の個々の創造性を育んだ人物であり、むしろその活動家的側面の方が現在においては有名かもしれない。鼎が初めた農民美術練習所と自由画教育運動が始まったのは同じ1919年だ。当時は教育面で個々の創造性を尊重する風潮は乏しく、図画教育も臨画教育の時代で、お手本を真似して描くことが主であった。本展ではそのような社会の中で芸術の民主化に力を入れて奮闘した鼎の軌跡を追っていく。
 前半では鼎の活動までの成り立ちを巡るが、特に後半の第四章「現代の農民美術とその流れを汲む人々」のセクションが記憶に残った。鼎のスピリットを受け継ぎ、現在に至るまで民芸や工芸品を制作している人々の作品が展示がされているのだ。展示作品数は数百点あった。これは「自分が直接感じたものが尊い」その100年前の言葉に胸を打たれた人々が現在に至るまでどれほどいたのかを物語っている。しかし一方でこの工芸品を制作している人々が高齢なのだろうと思うと、この流れの行方が気になってしまうのは筆者だけだろうか。同時に彼ら(長野県農民美術連合会が主のようだったが)を応援し伝統を残すアプローチの必要性も感じた。鼎の仕事が今に続き尚開花し、そして次の100年後を考えるという意味でも本展は重要な意義と課題をもたらしてくれた。

「農民美術・児童自由画100年展 」サントミューゼ 上田市立美術館 2階展示室
2019年11月30日ー2020年2月24日
https://www.santomyuze.com/museum event/normin_art100_2019/

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撮影者:田中直子

「ヨコハマトリエンナーレ2020  AFTERGLOW―光の破片をつかまえる」 (文:中谷圭佑)

 新型コロナウイルスの世界的なパンデミックによる影響を大きく受け続けたこの1年を振り返ると、世界中から65組67名ものアーティストを招集し、横浜美術館、プロット48、日本郵船歴史博物館を会場として企画されたヨコハマトリエンナーレ2020は、2020年7月に無事開催されたというだけでも十分評価に値する奇跡的な出来事だったのではないだろうか。そして、コロナ禍においてこれほどの規模の国際展を早い段階で実現した現場の力量もさることながら、本芸術祭が、現在進行形の困難で不安定なコロナ禍の状況それ自体もまたテーマとして内包し、それが決してトレンディで陳腐なものではなく、あくまでアーティスティック・ディレクターを務めたラクス・メディア・コレクティブの提示した世界観のなかで語られていたからこそ、2020年トップ10の展覧会のひとつとして選ばれたのではないかと私は思う。

 ラクス・メディア・コレクティブの「テーマ」ではなく思考の源泉となる「ソース」と称する資料を起点にしたキュレーションの手法が、本芸術祭を意味深いものとしたと言えるだろう。ソースとして提示された5つのキーワードのうちのひとつ「毒–世界に否応なく存在する毒と共存する」などを聞くと、今はついウイルスばかりを連想してしまうが、横浜美術館ではローザ・バルバ《地球に身を傾ける》や、パク・チャンキョン《遅れてきた菩薩》のように、放射能という「毒」を扱った作品もまた展示されていた。作品のひとつひとつが様々な社会問題を扱っていながらも、それらをひとつの展覧会として複雑な繋がりのまま見せようと準備してきたからこそ、コロナ禍という最後のピースが上手くハマり、本芸術祭は2020年にやる意味のあった重要な展覧会となったのではないだろうか。

 ちなみに本展ウェブサイトからは展示期間が終了した今でもバーチャルツアーを楽しむことができる。このように実際の展示をバーチャル空間としてアーカイブするのは、今後のスタンダードになりうるだろう。

 しばしば掴みどころがないとも評された本芸術祭は、時間が経ってからこそまた面白くなるものなのではないかと私は期待している。未来において2020年を振り返り、ヨコハマトリエンナーレ2020を振り返ったときに、この展覧会の詩的な語り口は時間を超えて私たちの記憶にどのようなものとして残っていくのだろうか。

 

「ヨコハマトリエンナーレ2020  AFTERGLOW―光の破片をつかまえる」
横浜美術館、プロット48、日本郵船歴史博物館

​2020年7月17日―2020年10月11日

https://www.yokohamatriennale.jp/2020/

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新井卓《千の女のための多焦点モニュメンツ No.1~10》2020 ( 撮影者:中谷圭佑)

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