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グローバル時代の芸術文化概論
「民主的なフェスティバルとは?東南アジア美術における不服従と地域主義」

日時:2019年11月15日(金)19:00~21:00
場所:東京藝術大学上野キャンパス 大学会館2階 GA講義室
講義者:デビッド・テ David Teh(ライター、キュレーター、シンガポール国立大学准教授)
通訳:田村かのこ
​文字起こし:松江李穂

住友:

 今日はシンガポール大学の准教授でキュレーターでもある、David Tehさんをお招きしています。「民主的なフェスティバルとは?」というタイトルで、Festivity、それから東南アジアの地域で起きている現代美術について話してもらうのですが、東南アジアのことをそんなによく知らない方でもすごくタイムリーな話だと思っています。それは、大嘗祭、つまり祝祭と政治にすごく関係するテーマになると思うし、それから僕はむしろ11月9日にベルリンの壁の崩壊から30年という、いろんなメディアの特集なんかでも組まれているのを見ると、その時高校生だったんですけども、その時起きた政治的な変化っていうのはすごい衝撃的だったんですね。なぜ衝撃的だったかというと、あれは革命ではなかった、戦争でも革命でもない形で政治体制が変わったからです。すごく象徴的に使われている言葉ですけど、ヨーロッパ・ピクニックっていう名前で、壁が崩壊するときにハンガリーとオーストリアの間の鉄条網が無くなって、そこで行われた集会をピクニックと呼んだんですよね。そういう形で政治が変わっていくことを経験したのが30年前だった訳なんです。今日はDavidが主に話すのは90年代、つまりベルリンの壁の崩壊の直後にタイの田舎で何が起きたかっていう話なので、どこかで東南アジアという地域を超えて恐らく示唆を与えてくれるんじゃないかなと思っています。

 私が彼を招きたいと思ったものは、こういう『Thai Art』っていう本を書いていて、もちろんこれは英語で書かれているんですけども、彼はタイに住んでインディペンデント・キュレーターとしてそこで仕事をして、タイで起きてる現代美術のことを理解する、というようなことをしています。僕らがアジアの美術のことを知るのは、大体西洋の本によって書かれた話です。それとは違う試みを彼がしているという特徴がこの本の需要な点です。それと今日の話に直接関わることで、『Afterall』からシリーズで出てる本でチェンマイソーシャルインスタレーションについても書いています。エキシビジョン・スタディーズっていう風に僕らは言ってますけど、展覧会がどのように行われてきたのかを考える研究で、この本ではタイの、どちらかというと地方で行われた90年代の芸術祭のことを書いています。

 

David Teh:

 ご紹介いただきありがとうございます。よろしくお願いします。今ご紹介いただいた本なんですけども、まさにこの本に書いたことを中心に、今日のレクチャーではお話ししたいと思っていまして、この本で特に扱っているのは1990年代にタイの北部で行われた芸術祭と、その周りの動向についてです。この芸術祭を例にとって言及するのは、今の私たちが使う「コンテンポラリー」とは何か、現代的であるということは何か、ということをアーティストたちの制作や活動を通して知る一つの好例だと思っていまして、特に東南アジアでこの言葉がどういう意味を持っているのか、というのを見ていきたいと思います。で、ここに関わってくる非常に重要な要素というのは、アーティスティック・アクティヴィズムというものの考え方ですね。これは東南アジアを語る上でメインのものではないかもしれないんですけれど、非常に重要なものだと思っていて、今日のレクチャーでも最終的に何か結論めいたことをお話するというよりは、このアーティスティック・アクティヴィズムということについての私の現時点の見解、考え方を提案して終わるような形にしたいと思います。

 このタイで行われた芸術祭についてなんですけども、私がタイに住んでいた時にいろんな人とこの芸術祭についての話をしました。10〜12年くらい住んでいたので、その間色んな人にこの芸術祭のことを聞いてみようと思って、その芸術祭のオーガナイズをしていた中心人物の方ですとか、そこに参加していたアーティストの方、もしくは参加はしてなかったけれども当時それを見て知っている人など、色んな方に聞いてみようと思ったんですけれども、驚いたことに誰もアート作品のことを話さなかったんですよね。ただこの芸術祭があったっていうことは、タイの人にとっては非常に重要な記憶となっていて、でもその記憶を話すときにアート作品の話が出てこないっていうのはどういうことなんだろうという風に考えました。なので、アートそのものの歴史化が必要なのか、それともそこにある、ある種の現代性、もしくは同時代性というものがその当時生まれてきたこと、そっちの方にむしろ重要性があるんじゃないかと考え、その現代性、もしくは同時代性contemporaneityの考え方の定義というものを、ここから考えていけるのではないかと思いました。私がそのようにcontemporaryというときは、元々は現代的という言い方はとてもシンプルな意味で、現代における「いま、ここにある」という意味だったと思いますけども、今となってはこのcontemporaryという言葉というのはあらゆるところで、違う文脈に、違う場所に、違う時期に使われているので、一つの時系列的な意味だけでなく、イデオロギー的な意味も含んでいるということを踏まえてお話したいと思います。ですので、どうやってこのcontemporaryという言葉がイデオロギー的な意味を手に入れたのかということを考える時に、この90年代の芸術祭というのは一つ大きなヒントになると思っています。

 で、このプロジェクト、研究を通じて、私は3つのことについて考えたので簡単にお話します。まず1つ目は、このcontemporary同時代性というのは特定のアーティストや芸術作品から見出せるものでもなく、またアートがパブリックになったということでもなく、もしかしたら本の出版社としてはそういうことを望んでいたかもしれないんですけども、それよりも同時代性というのはアーティスト同士の親交や交流にあるということです。2つ目のポイントは、ここで当時取り上げられた公共の考え方やパブリックという場というものは重要ではあったんですけども、そういったパブリックの場のあり方は、ある種政治的な理想を語る集会というものに似ており、そこで重要だったのはいかなるイデオロギーや理念を共有することよりも、そこで活動していたアクティヴィストたちの姿勢そのものだったということです。そして3つ目のポイントは、その関わった人々の中で地域主義、ローカル性というものが、国際主義の中でも重要な要素を担っていたということになります。

 この考え方や私の気づきというのは、今の美術史家ですとか美術館は、進歩的でアクティヴィスト的な立場というのを再評価している、そしてその再評価を加速化している現実があると思いますので、とても今の現代においても重要なポイントだと思います。そしてモダンアートというのは、国際的であるということに価値や対価を見出していたとしたら、この現代性、同時代性というものが地域主義と国際主義を併せ持つということ、そこが非常に重要であるように思います。で、この地域主義と国際主義というものの価値観がどこで一致する、もしくは結びつくということがあったとすれば、それがこの90年代の祝祭性の中においてだったのではないかと考えているわけです。

 今からお話することのアウトラインをここでお見せしているんですけども、このフェスティバルとアクティヴィズムということを語る時に、もしかしたらフェスティバルとアクティヴィズムは相対する、対立する、もしくは矛盾している関係だと思うかもしれないんです。しかしタイにおいて、もしくは東南アジア全体といってもいいかもしれないんですが、タイにおいてはアクティヴィズムというのは必ずしもシリアスなものというわけではなくて、例えばお酒が入った状態で、盛り上がった状態で行われるようなものであったりするわけなので、タイでは選挙の日には飲酒が禁止されたりするんですけれども、そういったことと関連していると思っていただければと思います。

 ベネディクト・アンダーソンが言ったことでもありますけども、アメリカの影響下の中でストライキというのが非常に大きな役目を担ってきて、そのストライキというのが単にアクティヴィスト的な役割をするだけではなく、例えばミュージカルですとかそういったパフォーマンス的な要素に結びついたり...ということがあったということです。そういった祝祭的な要素というのが非常に重要ではあったんですけど、同時に例えばインドネシアの1980年代のスハルト政権の状況などを見てみると、フェスタデモクラシーという言葉が使われていて、それは「祝祭的な民主主義」と訳せるんですけども、それを「祝祭的な民主主義」と訳すべきではないというふうに学者たちは言っております。というのも、民主主義がそうした祝祭的なものと単純に結びつくわけではないからです。

 そして南部では2014年に「黄色いシャツ運動」というのがありまして、それはアートに直結する動きであったわけなんですけども、アートだけではなくアート、音楽、ファッションにも影響が及んできた一例であります。なので、私が今言おうとしているポイントというのは、東南アジアにおいてはこのアクティヴィズムとフェスティヴィティ、祝祭性というのは違うものではあるけれども、必ずしも対立しているものではないということです。

 今ですね、現代アートの状況で、現代アートに関わっている人というのはよくジョークで「自分たちの仕事というのはパーティに行くことだ」って言ったりしますが、それはあまりにも皮肉すぎるかもしれないんですけど、ただ現実としてはやはり展覧会の中身というよりも、そういったオープニングに行くためのスケジュールで予定が全部埋まるといったことが現状あると思うんですね。こういったオープニングに行くっていうシステム自体っていうのは、最近のアジアにはほとんどシステムとして、あからさまな形で存在していなかったのかもしれないですが、感覚的には新しいものではないと思います。ただ、アジアの芸術の力というのは、急速に拡大してモバイル化する中で、そしてグローバルな文脈に統合されていくにつれて、ある種の祝祭性というのがフルタイムの仕事のように感じられるようになったというのは間違いないと思います。

 こちらで私がキュレーターとして参加していた光州ビエンナーレから何枚か写真をお見せしていますけれども、例えば光州ビエンナーレでの祝祭性で言うと、例えばこのオープニングに誰が来るかというと、韓国のファーストレディが来たり、K-Popのシンガーが来たり、そして光州の市長、そしてビートボックスのダンサーですとか、パフォーマーたちが一堂に会するということが行われたわけですね。

 こうしたアジアのビエンナーレの状況というのはまさにごった返している状況だと思います。で、アートを現代的ということにする責任を持つ全ての人々が集まっています。アーティスト、アシスタント、監視員、キュレーター、博物館、美術館のディレクター、ギャラリスト、編集者、写真家、批評家、フィクサー、インターン...挙げたらきりがないですけれども、そういった人々の中でミーティングが日々予定され、意見が交換され、取引が行われています。ただ、それぞれが次々イベントからイベントに飛び立っていろんなところに行くわけですが、この加速的で分野横断的な一つの儀式を、同時代性のパフォーマンスという風に考えている人はどのくらいいるだろうか、と問いたいと思います。それは今の現状認識では展覧会の中で行われていることになっているんですけれども、それはすでに展覧会の外にも活動として飛び出していると思います。

 90年以降アジアの近代および現代アートの産業化というのが急速に行われたわけですけども、特に美術館などのインフラが整備されていない国ではこういった、ビエンナーレという形で芸術祭を行うことの利便性と重要性が高まる一方でした。モダンアートを正当化し、もしくは規範化していく制度についてのそういった美術史の中でも重要なポイントだと思いますが、西洋では美術館が先で、その次にビエンナーレが起こったのですが、アジアの現代アートにとってそれは全く逆だったのです。

 こうした大規模な展覧会に対する批判というのはもちろんあるんですが、今日のアートシーンを変えるのは、まさにこういった展覧会や芸術祭の形だろうと思います。そしてアジアでは、まだこういったスペクタクル的なものへの熱狂というのも根強くあります。20世紀を代表するナラティヴが自律的なモダンアートを、そこから商品化していくことだったとすると、21世紀のアジアにおける芸術というのは、おそらくこの「スペクタクル化するフェスティバル」ということにナラティブが持ってこられることだと思います。

 脱植民地化のスペクタクルというのを見直すなかでも、これをより長いスパンで見た祝祭性の展示の歴史に位置づけることができると思います。モダンアートの国際主義を見つめ直してみますと、それが必ずしも第一世界に限定されたものではなく、第二世界や、非同盟国である第三世界におけるプロジェクトでもあったということが分かります。特に冷戦が行われる中で、この3つの世界共に祝祭性に入れ込んだという事実があります。そして皮肉なこと、非西洋圏のエリアにとって、フェスティバルの盛り上がり、つまりフェスティバルの利便性が認められるタイミングと、現代アートのいわゆる自律性の確立の盛り上がりのピークというのがぴったり一致していました。

 何れにしてもこの二つの変化、つまりアートが商品化され、フェスティバルがスペクタクルになるという歴史、この二つの変化というのは不可分であるということです。で、もっとも自律的とされるタイプのモダンアートでさえ儀式的なものだとか、スピリチュアルなものと共鳴して存在していました。例えば、マレヴィッチの黒の正方形や、ロスコの礼拝堂、ダダイズムからフルクサスまで、もしくはグループゼロですとか、ウィーン・アクショニストのようなアーティスト・コレクティブが求めていた即時性、もしくはモスクワ・コンセプチュアリズムのアーティストたちによって80年代初頭に行われていたアパートメントアート、同時期に韓国で発生していた遼東コレクティブの環境芸術などです。

 日本でいうと、そういった動きというのは1954年の具体から始まったと言えるかもしれませんが、60年代においては黒ダライ児がカウンターカルチャーのグループを儀式系作家群というふうに呼んでいます。シンガポールでは、芸術というのはその当時、国家が買えない贅沢だったわけなんですが、79年のタン・テン・キーの作品《ピクニック》というのはまさにそう行った祝祭的な陽気な雰囲気をまとうものでして、これらは全て高度なモダニズムに似ていながら、ライヴであり、その場でしか行われないものであり、集団のコレクティブによる上演であり、そしてある種のコミニオン、交友、親交なしには実現できないものでした。

 今日の国境を越えた交流が加速する中で、現代アートが国際的ではなくグローバルになっていった時代というのが今だと思うんですけども、ではそこで私は芸術作品が祝祭性のあり方によって物象化され、役割を与えられるというその考え方自体の見直しをしたいと思っているんですね。その考え方ではなく、フェスティバルそのものが作品であり、その中で展示される芸術作品はむしろ小道具のようなもので、意味や価値を持つものでないとしたら、と仮定したらどうか。つまり、例えば儚いものですとか、サイトスペシフィックなもの、ライブで行われるもの、パフォーマティブなもの、参加型のもの...そういったフェスティバル的な作品のあり方というのは作品が商品化されることへの抵抗を意味するのであれば、その形そのもの、もしくは形式そのものが持っている意味というのを一旦外に置いて、フェスティバルそのものが作品であるという考え方にできないか提案したいです。

 ほとんどの東南アジアの言語では、アートという言葉はそれが意味するのは生身であったり、生物である、ライヴであるということなんです。なのでオブジェとして、モノとしてのアートというのを語るためには、新しい言葉を作り出す必要がありました。ですので、これは西洋のあり方とは逆転していると思うんですけども、その逆転しているということを、例えば動的なものと静的なもの、儚いものと収集可能なもの、伝統的なものと現代的なもの..そういったものの緊張感を考えるときに、東南アジアのアートの定義というのは逆から始まっている、というのを私たちは常に考慮しなければならないと思います。で、西洋におけるパフォーマンスやコンセプチュアリズム、ビデオ、ランドアートなどの評価が確実になって以降は、この非西洋で行われていたこれらの活動というのは、一種の体系の外に在るもの、枠線の外に在るものとして一つの役割を担っています。

 アジアの同時性contemporaryというものが、物象化されることと向き合いながら強く在るためには、芸術祭と祝祭性というのが一つで在ると、常にそれは物象化の一部であるという風に考えなければいけない。かなり厳密に同時代性ということと、この祝祭性のあり方が同一視されなければいけないということです。で、恐らくこれが多くの、特にタイムベースのメディアで制作するアーティスト達がフェスティバル、芸術祭において人類学者的に振る舞ったり、ガイドのように振舞ったりする理由なのだと思います。一例をあげますとマーサ・アティエンザというアーティストが故郷の西ビザヤというところに毎年戻りまして、そこにあるキリスト教的で、同時にアニミズム的である儀式の様子をビデオ作品に納めています。

 このような非物質的、もしくはタイムベースの作品のあり方、そういった属性というものがそれこそチェンマイのフェスティバルのようなものに一つの対価、交換価値を与えて、私たちのような今の現代の学者にも魅力を感じさせるものになっているということです。

 今からもう少し、このチェンマイでの芸術祭についてお話したいんですけども、チェンマイのコンテクストにあまり詳しくない方もいらっしゃると思いますので、このフェスティバルが起こった文脈というのを少しお話ししたいと思います。お話している間に、後ろで芸術祭の様子が流れているのを見ながら聞いていただけたらと思います。

 チェンマイがどういうところか少しお話しますと、バンコクの北に位置する小さな都市で、バンコクから運転すると何日もかかるような距離が離れた場所にあります。18世紀以降は場所としては重要な役割を担っていないんですけども、ただ小さい都市でありながらかなり都会的な雰囲気も有しておりまして、多様な民族が暮らす高原地になります。そういった民族的なことや自然といったことだけでなく、タイのインテリ層にとっても非常に重要な場所でして。というのも70年代の左寄りの思想家や学生たちというのが、その当時の政府に抵抗を示してジャングルの中で戦った後に、82年にアムネスティが制定され、そういった思想家達が街に帰って戻ってきたのがチェンマイでありました。

 この同年82年にこの首都バンコク以外に初めて美術大学ができましたが、その当時はまだ現代アートの分野はありませんでした。92年に初めてチェンマイで芸術祭が行われましたが、最初の芸術祭の参加者というのはチェンマイにできた美術大学の学生がほとんどでした。16人タイのアーティスト達が参加したのですが、その中での中心メンバーだった人たちが何人かはその後、バンコクに進出して展覧会の機会を得たりしたんですけども、全体的にはなかなかチェンマイを出て外に活動の場を広げるということにはつながりませんでした。ただ一人例外がありまして、ミット・ジャイインというアーティストは、何年かウィーンに留学をして勉強してきた人なんですけれども、彼はウィーンで見た展覧会を持って帰ってきてチェンマイに紹介をし、非常に大きなインパクトを持って迎えられました。で、彼が見た展覧会というのはウィーンの街中のアパート、個人が住んでる住宅内に作品を設置して、観客は地図を手にしてそのアパート一つ一つ回りながら作品を鑑賞するというタイプの展覧会でした。そのウィーンの展覧会のアイディアを持って帰ってきたんですけども、それをそのままチェンマイでやるにはまだ受け入れがたいということで、代わりに第一回目の芸術祭は4つのお寺と4つの墓地を使って開催されました。これはなるべく普通の人たちに、日常の中で美的経験をしてもらいたいという思いからです。

 予算はほぼ無くて、ほとんどがボランティアや街の人たちのサポートによって行われたのですが、ただ従来のモダンアートが持っていた社会的、もしくは空間的な範疇を超えるチャレンジをしているということで話題になりました。93年の後半に第二回が行われ、参加人数は二倍に増えました。海外勢も数名増えて、そして女性の参加者も加わりました。パブリックなインスタレーションとしても中心部の外に少し変わった形の作品がいくつか発表される機会となりました。

 この芸術祭は1995年がピークで、一番盛り上がりを見せたのですが、その理由の一つとしては、当時アーティストたちが作ったプラットホームというのが展示を重視しすぎるようになってはいないかというのを懸念しまして、つまり彼らの言葉で言うと、ビエンナーレ的になりすぎてはいないかということを心配したアーティスト達が、タウンミーティングのような集会を開くことにしたんですね。それがWeek of Cooperative Suffering (=共同的苦難の週間)という名前なんですけども、といった集会を開いて、観光地として人気のあるターペー門の前で夜な夜な明け方まで色々な人が集まって、知識人、アーティスト、そして普通にアルバイトしている人ですとか、通りすがりの人を巻き込んで対話をするといった集会を催しました。

 同時に、その年の後半にはチェンマイの芸術祭の第三回目がさらに規模を拡大して62人のアーティストで催されます。タイ人の参加者というのはその内の半分以下でして、ヨーロッパから15人、そのほかの東南アジア諸国から9人、日本から9人、北アメリカから3人、南アジアから2人、オーストラリアから2人参加していました。この年というのは、第18回東南アジア大会と、そしてチェンマイの都市700周年という年が重なったことで、テレビでも広く取り上げられました。

 97年に第四回、そして最終回となる五回目が開かれたんですけれども、全ての回においていわゆるアートの場所でない空間を積極的に使用し、97年というのはまさに金融危機の真っ只中です。そしてタイでは新憲法をめぐって政治的な抗議活動なんかが行われている最中に四回目と最終回が行われました。その後、プラットホームの芸術祭のあり方を復活させようという試みもあったんですけれども、当時牽引していたアーティスト達というのが別のプロジェクトに移っていったりとか、海外での活躍の場を広げて忙しくなったりしたのでなかなか実現されませんでした。

 時間がなくなってきているので、簡単に90年代のタイのアートシーンについて話したいんですけれども、まず国内の状況として90年代のタイというのは2つの大きな勢力によって二分されていました。一つは国立の美術大学、美術学部があった国立のシラパコーン大学の勢力ですね。これはかなり大きな力を持っていたんですけども、そこと対立するものとして、そういった教育を受けていない独学でやっているアーティスト、よそ者扱いされていたり実験的なことを行なっているアーティストというのが二項対立のような形でいました。シラパコーン大学の勢力というのは、90年代以降多くの人が外国に留学するようになったり、シラパコーン以外の大学でも美術が学べるようになったりした動きが増えて少し衰えます。

 このチェンマイの活動をしていた学生達やアーティスト達というのは外から見ても内側から見ても非常に重要な動きというのがいくつかあったんですけども、学生達、中にいる人たちにとってはそういった学術的な分野ですとか、システムやマーケットから一定の距離を保って活動していました。彼らは非伝統的なメディアを好んで積極的に実践しまして、つまり工芸との差別化を図ったんですけれども、そして実質的なスキルを重視するというよりは自分たちの知力と知性というのを強調していました。この知力、知性ということに力を入れたことによって自分たちが、新しい国家ができるときにブルジョア的な工芸の投資というものから自分たちを差別化しようとしていたわけです。

 そして2つ目のポイントとしては、いわゆるアート用に作られたものでない場所を利用したということです。彼らは街をギャラリーに変えていったんですけども、彼らの言うパブリックというのは、その当時の非常に決定的な国家的、政治的な瞬間と同時に形成されたような趣があります。と言うのも、芸術祭がスタートしたのも、腐敗した軍事政権に対して中産階級が自分たちの抵抗を示した時期でありましたし、92年には所謂、「暗黒5月事件」という事件が起きて弾圧を受けている真っ最中でした。芸術祭が終わったのは、そういった地域が金融危機で苦しんでいた時で、この金融危機では同じ中産階級の人々が苦しめられることになったのですが、このチェンマイの芸術祭を見ていると、中産階級そのものを劇的に分裂させた政治的な崩壊がそのまま現れているような、そんな予感させるようなものでありました。そこからポピュリストであったタクシン・シナワット元首相が、2001〜2006年にかけて攻防を繰り返すわけなんですけども。彼とその陸軍との関係や苦労、そしてそれ以降のタイ政治の困難というものに続いています。皮肉なことに90年代にこの民主化運動に参加していたアーティストやアクティヴィスト達の多くが20年ほど経つと王族派に転向しまして、軍事クーデターを擁護するようになってしまいます。これについてはあとでもう少し言及したいと思います。

 90年代にそういった中流階級の人々が結束を強めたのは、仏教が中心にあったからです。で、これは芸術祭の重要な要素でもありました。ただ私が先ほど、この芸術祭がお寺や墓地を中心に展示が行われたというふうにお話しましたが、注意としては、これが決してスプリチュアルな意味と言いますか、宗教的な意味を出すためにそういった場所が選ばれているわけではないということです。海外の評論家の中にも、そういう風に語る人もいるんですけれども、お寺や墓地が選ばれたのはむしろ、一般の人々を日常の空間の中で作品やアートに引き込むために選ばれたということがあります。付け加えますと、タイの仏教寺院というのは単なる宗教施設だけではなくもっと広い役割を持っていますし、なんなら仏教に限っているわけではないんですね。比較的階級的にも中立的な場所としてあるので、コアメンバーの一人が「過去を扱う文化センター」であるという言い方をしています。

 これまで国内の状況についてということで国家の単位でのお話をしてきたので、そことは別に地域という所に着目した時の特徴というのを簡単にお話したいです。これはタイだけではなく、東南アジアのキュレーション的な枠組みですとか、アートの枠組みというのを語る時に今でも非常に大きな勢力となっているのが、ASEAN主義とでもいうような、ASEANという政治的な枠組みを単位としたキュレーションの在り方です。これは例えば日本でもオーストラリアでも、シンガポールでも、このASEANという地域に限定して作品を収蔵したりですとか、そういった動きというのが国家の単位として行われていたりするわけなんですけども、そこで重要なのは地域主義、つまり国際主義とはまた別のものとしてローカリズムというものを語ろうとすると、よく語られるのは1970年代に権威主義とそして新しい市民社会運動の頂点というのがアートの集団主義と、革新に反映された時代だというのでそこから語ろうとする動きが多いんですが、私がここで注意を促したいのは地域主義というのを語ろうとするときに、特にこのASEANの国々の中の地域というのを語ろうとすると、ASEANのそれぞれの国家という単位を通らずには語れない状況になっているということです。つまり、それぞれの国の単位を一回通さないと地域について語れない状況になっている。

 私が自分で執筆した書籍では、この70年代というところからなるべく焦点を移そうとしています。それはなぜかというと、先ほどお話したように国家という枠組みの元で現れたものではない同時性というのを見つけたかったからなんです。つまり今現在の意味において、グローバルな意味で現代的な作品というのはどういったものから始まったのかというのを、国家の主体、もしくは国立の機関や公立の機関を通さずに、そういった国立の機関から守られた中から生まれてきたものではない状態の作品というのは無いかといったことを探っていったわけなんです。例えば87年から始まったバギオのバギオ・アーツギルドは89年以降、国際的な芸術祭として行われたんですけども、そういったものですとか、シンガポールアーティストヴィレッジ、これは1988年から始まりまして90年代に入るとより国際化が進みましたが、こういったアーティストが運営するプラットホームというのがチェンマイ以外にも出現しています。こういった中で私が見出せるのは、地域の中の友情関係ですとか交友関係というのは、アーティスト自身が運営するプラットホームの中で互いにその野望を共有したりですとか、自分自身を相手に反映させるような形で国境をこえて同時代性そのものを彼らの中だけで共有することができた状態があると思います。それは他のどんな機関よりもはるかにお互い同士の方が共通点が多かった。所謂今の意味での現代アートというのはこうした正式な機関では無い、準機関のような場所から生まれてきたということが言えると思います。

 このアーティスト同士がその中で持っていた、親近感をもう少し本の中では地域性と結びつけて噛み砕いているんですけれども、それがいくつかの要素を挙げているのですが、一つ目の要素は、このスライドを見てもわかるので省きたいと思います。それは美的な要素ですね、アーティストたちが作るものの中に見られる共通性です。二つ目が地理的な要素です。各アーティストグループ、インディペンデントで活動するグループというのはそれぞれの国の国立の関係機関からも距離をおいて活動していました。それぞれが自分たちの田舎や故郷というものに片足を置くような形で活動していたんでけれども、同時に反都市的でもなかった、そして実際にはこのころの動きとしては、都市への求心性というか都市に惹きつけられる力というのが強まっていて、そういったことが相対的な関係として田舎や田園地方というのを、過去を投影するようなイメージとして新しい関係を示すというのがそのころの動向としてありました。そして現代以前の物質や社会的価値というのを引き合いに出して、そこに価値を見出していたわけなんですけども、これはアジア全体で急速に都市化が進む中で今も見られる反射現象だと思います。

 そして彼らの地域主義というのは、決して辺境のものではなかったということです。これはつまりトランスナショナル、国を超えるものだったり、トランスローカル、地域を超えるという風に言えると思うんですけど。そしてそれは彼らの世界観を制御するものでもなく、自分たちの都市化を考えるときに重要な鍵となるものだったと思います。

 この親和性、親近性ということについての三つ目の要素は、組織的なあり方というのに着目したいと思います。東南アジアの同時代的なものとしての祝祭性ということに戻りたいんですけども、祝祭性を東南アジアで考えたときに、それが場所として機能しているだけではなく、それが一つの形としてもあったということです。アジアの美術の立ち位置として現代というものが祝祭性の土壌から育ってきたということを考えると、それはどんな意味をもつのか、つまりそれはモダンアート、もしくはそれ以前の伝統的なアートの形との連続性を示唆していると思います。そこと繋がらなければなかなか歴史というのは見えづらいわけなんですけども、その中で考えると現代アートの伝統の再発見というのは弁証的な統合としてではなく、つまりよく言うような伝統と近代といったような二項対立や、東南アジアの美術史によく語られるような地域研究のことではなく、これらの美術における古い社会の機能の再主張、これは保守的だと見られることが多いんですけど、その現代的な役割というのを再考した方が良いのではないかということです。

 もう一つ組織的な在り方ということについて述べるとすると、キュレーターというものへの不満や不信というのがあると思います。東南アジアのキュレーションの歴史についてはパトリック・フローレスが『Past Peripheral』という本の中で言及しているんですけども、東南アジアのキュレーションの歴史と祝祭性の歴史というのを並べてみると、それはほとんど交差しないんですね。ほとんど交わる場所がない。パトリックの紹介しているアーティストやキュレーターの中に、私が今お話ししているようなインディペンデントな芸術祭を先導しているものというのはほとんど出てきません。これはかなり驚きなんですが、おそらくここから言えることというのは、キュレーションの役割と呼んでるものがなんなのかということを、この東南アジアのキュレーションの役割というのを再考する必要があると思っていて、それはおそらく祝祭性ですとか、今芸術祭の中でアーティストが確立しようとしていった、ヒエラルキーのない構造とはまた別のもの、全くそこからは無縁のものらしいということです。そこから言えるのは、東南アジアのこの地域におけるキュレーターの力というのは、本質的に進歩的なのではなくより古い形、もしくは非現代的な、もしくは官僚的な力の在り方なのかもしれないということです。

 こういった80-90年代に、出てきたインディペンデントなグループというのはまさに現代アートのゆりかごとなったわけですけども、彼らは地理的な中での権威主義と非政治化というものの考え方が共有してできているともいます。特にインターネットなどの電子通信が活発になってきたところからは、国境というものを超えたものの中で地理的に共有できるものが増えたと思います。そこから導き出されるのがどういう事かというと、私の研究の中では恐らくそういったアクティヴィストたちがどんな政治的達成をしてきたとか、どんなイデオロギーを唱えたかというよりもそのアクティヴィストたちが持っていた姿勢の方がより重要だったわけです。そういったアクティヴィスト的なアーティストの在り方ですとか、アーティストアクティヴィズムについて、一人例にあげながら文脈をお話ししますと、例えば先ほどお話ししたミット・ジャイインという人は、その中でも模範的な非順応主義者として恒例ではないかと思っていて、本の中では何回か登場します。かなりエネルギッシュで、世界を股にかけて活躍した人ですけれども、チェンマイの大学の学生ではなかったんですが、チェンマイでの芸術祭のコアメンバーの一人でした。初期の芸術祭では、かなり反市場的な雰囲気というのを彼が態度として作り出していて、例えばターペー門の前で小型のトラックの後ろから、数十枚の絵を投げ配るというのをパフォーマンスとして行ったんですけれども、実は配った絵が描かれたキャンバスというのは、キャンバスになる前は人の死体を包む前に使われた布でできていたんです。彼は様々なスキャンダルと思われた行動を起こしていまして、トラブルメーカーとして知られていて、例えばバンコクで行われる展覧会のオープニングにネオトラディショナリストとして奇抜な格好で現れたりですとか。これが92年の暗黒五月事件の時の彼ですね。花柄のシャツをきているのが彼です。こんな色んな事をやった彼も、アートの市場では実はあまりそれも悪影響ではなかったという事で、彼の今の現状はどうなっているかというと、これはアートバーゼル香港で「エンカウンター」という展覧会に出品した時の彼の作品ですし、また東京で行われたサンシャワーの展覧会にも出品していました。

 彼は一人のイノベーターとして、政治的にも芸術的にもリーダーシップがあり特別なカリスマ性を持っていたわけなんですけども、ただ私が彼を一人の例としてあげている訳は、こういったアクティヴィストを目の前にするときに、信頼性というか、そのアクティヴィストの行動というのは細心の注意を払って文脈的に理解する必要があるという事です。特に彼のように、美意識と政治的思想を対立させながら活動を行なっている場合は、慎重に文脈の中で理解する必要があります。その理由は、彼は自分の認識としては共産主義者だったと名乗っていた訳ですね、もし政治勢力としての共産主義というのが、彼の世の中を断つ80年代までに消えていたとしたら、彼が戻るまでに完全に共産主義自体も消滅していたと思うんですけれども。ただこういった事を理解するにも、歴史的な文脈が少し必要になってくると思います。タイの歴史的文脈を少しお話すると、いわゆる絶対主義の考え方というのは1932年頃までに消滅しまして、50年代に入ると政治的にも経済的にも左翼的な思想の持ち主が言説を握るようになり、その中で文化や芸術のことが盛んに語られるようになりました。そこで発言していた人の中でも、著名な人の中にチット・プミサックという人がいまして、ライターでもあり歴史家でもあり、批評家でもあった訳なんですけれども、彼はバンコクのアメリカ大使館に勤めている最中に、共産党のマニフェストをタイ語に翻訳するということをやった人なんですが、彼が提唱したスローガンのなかに「Art for Life」というものがありまして、その「Art for Life」というのは当時のアーティストの活動の中にも積極的に問いただされていく、大きな力を持ったものなのです。

 70年代に関しては、国を民主化するための実験的な取り組みが何回か行われまして、特に73年76年というのは実験が多く行われた年だったんですけども、ただそれの(???)として、軍事政権に戻ってしまう訳なんですね。80年代は経済的にかなり発展しまして、それが続くのが先ほどお話した92年までということになります。

 マレーシアのサイモン・スーンという人がこういった政治的、経済的な様々な抵抗ですとかタイの中での動きというのをアートの、ストリートに出て行く、あるいは民主化する動きと結びつけようということを語っていまいして。彼だけじゃないんですね、そういった語り口でアートの動きと社会の動きを結びつけようとしている人は何人かいます。今お見せしているのは、「アジアにめざめたら:アートが変わる、世界が変わる 1960-1990年代」という展覧会の写真で、これは東京でも巡回したのでご覧になった方もいるかと思いますけども、今この真ん中の写真に出ていますのが先ほどお話した、70年代にそういった民主化運動で戦った人々の当時のポスターを再現した作品になります。なのでこのサイモンのように、例えばそうやってコネクションを見つけて、それを同時に語って行くこと自体は悪くないと思うんですけれども、ただ70年代の当時の文脈、そしてそれを取り巻く動きと90年代の状況というのはかなり違うので、その違いというものも踏まえないとなかなか見えてこないという風に思います。なので70年代というのは、先ほど申し上げた通り、経済危機もあり冷戦もピークを迎えている、かなり暴力的な対立が常に起こっているような状況でしたが、それに比べて90年代というのは、タイは冷戦下の影響というのも82年には落ち着いていますし、その後には急速な経済成長そして中産階級の人が青天井に手を伸ばすといった状況でしたので、そこが大きな違いとしてあります。そしてこの状況の違いというのが一つ厄介な結果というのをもたらしていて、というのも70年代に進歩主義者として抵抗を示して活動していた人々が、その人たちが90年代になるとレトロ封建主義と言いますが、後進的な後退的な封建主義に同調してしまって、そして地域主義、ローカリズムということも王族と結びつけて考えられるようになってしまったということです。

 そして90年代のタイの中流進歩主義者の奇妙な点というのは、多くの人が2000年代に熱烈な王党派、王族派の主義者となって、クーデター自体を擁護するようになり、そして民主主義の名の下に選挙反対運動を展開し始めたということです。これが非常に皮肉なUターンと言えると思うんですが、こういった動きというのは外国の批評家たちにはほとんど見過ごされました。

 こういった動きというのが国際的に取り上げられるようになった時に、大きな誤解も生じました。例えば90年代後半にチュンポン・タクサポンチャイは政治的な活動を活発に行っており、彼はかなりアクティヴィストとして作品の発表していました。ただ80年代90年代のアクティヴィズムというのはこの地域、つまり東南アジア全域そして東アジアを含めて全体的に広がっていた動きであると思いますけども、その地域全体に、つまりネットワーク化が起こっていたということは言えると思いますが、ただそれが彼のその立場もその後、タイの国内政治の議論が進むにつれてより複雑なものになってしまいます。なので、チュンポンと一緒に活動していたようなアーティストやアクティヴィストたちもプログレッシブなことからかけ離れた状態になってしまったという人も多かったです。

 こういった誤解というのは、西洋的なものの見方だけで起こる訳ではありません。アジアの中でも発生しています。例えばスーティ・クヤミチャイノンドというアーティストがいるんですけれども、彼は光州で行われたグループ展に参加した時に、その人の作品がかなり議論をかもしました。というのも、彼自身もいわゆる運動にアクティヴィストとして活発に参加していた世代であり、そして2014年の選挙に反対する運動のリーダーの一人であった訳なんですけども、彼の作品が光州に展示されることとなってタイではかなりの論争が巻き起こりました。光州といった土地柄も、そういった政治的な動きや政治的な事件に過去にも苦しんでいる土地ですから、かなりのそういったことに敏感な土地であると同時にこのタイの中で、このスーティという人は反選挙運動に関わっていたということで、かなり本当は民衆的だったとしても、反民主的な活動に関わった人物として見られてもおかしくない状況にあったということです。

 今日のプレゼンは全然まとまっていないので、二つまとめがあるんですけども、時間がないので、皆さんの意見も聞きたいので一つだけお話しします。で、それは簡単にいうと、アクティヴィストであるということが必ずしも進歩的ではないということです。それを常に忘れないでいるべきではないか、という提案です。この方程式、つまりアクティヴィスト≠プログレッシヴは70年代にもっとシンプルだったかというと、そうでもないと思うんですね。何れにしてもタイの現代アーティストたちの民主主義へのコミットというのは、そういった文脈に照らし合わせて相対的に理解していく必要があるということです。で、このアーティスト同士の中で、東南アジア、東アジアの中でいくらお互いに対して親交を持ったり親近感を持ったりしても、それぞれの地域の文脈によってそれだけでは理解できないということもあるということです。私が先日お話しした東南アジアのアーティストは今回、日本のあいちトリエンナーレで起こったことに対しては本当に自分に起こったことのように胸が痛むと言っていました。ただ同時に自分自身は東南アジアでやっていくアーティストとして、かなり権威主義的な施設や機関といったものに属しながらアーティスト活動を行っている。その二つのアイデンティティといったものに引き裂かれるような思いだといったことを語ってくれました。そういった東南アジアのアーティストが、例えば韓国や日本といったアーティストたちと同じ自由について、同じキュレーションの中で語ることができるのかということ。そしてもし自由というものがないとしたら、彼の日常の、プロのアーティストの活動としてどんなことが言えるのかということ。それが東南アジアの中でどんな風に理解できるのかということ。今回日本でお話しするということに当たって、こういった相対的なことで終わらせることで良かったかなと思いつつここで終わりたいと思います。

 

 

 

〈質疑応答〉

 

住友:

 最後に触れていた70年代と90年代の関係についてはすごくいろんな考えを持っている人もいるんじゃないかと思うんですよね。特に70年代というのはタイだけではなく、世界中でイデオロギーの対立がすごく激しかった時代で、その時にアーティストが行なったことと、それから90年代のチェンマイのこととか、あるいは日本のことにどう関係付けるかというのは今日のレクチャーの重要なポイントだと思います。今日の話だと、中産階級、特に日本だと団塊の世代が経済的に豊かになって進歩的だった人が保守化するということがあると思うんですね、それが70年代から90年代への移行として日本でも起きたことでもある。それともう一つは、はじめのほうで言っていましたが、トランスローカリティは70年代と90年代の違いとどういう風に関係するのかをお聞きしたいです。というのも、アジアの美術を語る上で国家という枠組みがある程度語る上で必要であるという理由は各国それぞれの民主化とか工業化のプロセスの違いがあるためだと思うので、そうすると70年代と90年代の比較というのは、どのようにアジアの美術を語るときに関係してくるのかは重要な点ではないかと思います。タイのケースでもいいので、トランスローカリティの方から見た70年代と90年代の違いをもう少し説明していただければ。

 

David Teh:

 まず今の質問でいただいた視点で70年代と90年代を比べたことが正直あまりないので、というのも70年代のそういったトランスローカリズム、トランスナショナリズムを調べるのがかなり難しいんですよね。言語的にもリサーチスキルも非常に多く必要になってくるので。ただ今私が考えた所見を申し上げますと、70-80年代というのはタイにおいて、特にチェンマイがあったようなタイの北部において報道というのが、テレビとかラジオとか、がかなり活発に行われていました。というのも、アメリカの軍事政権というのがそこに関わっていて、そういった通信を行うためのインフラを建設していきました。でそれが国家によってコントロールされ、報道放映するものについてもかなり軍事的に管理されて権威主義的ではあったんですけども、それが都市的な、都会的なインフラの整備がされたという事実がこのタイ北部の、例えば山の中で暮らす部族たちに少なからず影響を与えていた。そういった山の中で暮らす部族たちというのは、もともとトランスナショナルな存在、つまり国境のことも意識していないし、自分たちの民族的もしくは言語的なくくりの中で生活していて、それが国の範囲で考えると三つも四つも飛び越えるようなものだったりするわけなんですけども、彼らがある種国家の枠組みの中で設置されたインフラを使って自分たちの文化を盛り上げるということのために伝えていったというのが事実としてあるわけですね。例えばその地域で放映されていた当時のラジオでは、部族の中の従兄弟同士が、その従兄弟に買ってきてほしいお買い物リストみたいなものを伝えるためにそのラジオをしていて、家族同士の伝言がラジオで放映されていたりだとか。トランスナショナルに繋がった地域性というのが実はもともとあって、それはいわゆる文化史では書かれていないんで、かなりそれを追いかけるのが難しいという現状があります。

 トランスローカルについて付け加えると、80年代にフィリピン諸島の中で様々な節目を超えて活動していたアーティストたちというのは、かなりの物理的な距離を移動しながら自分たちの活動を行なっていたわけで、それが国の中でもあり得たし、同時に国を超えることでもあり得たということなんですね。つまりトランスローカリズムというものを語るときに、もしくはそれがコスモポリタン、都市化であるということを語るときに、私たちの感覚で言うと、都市化をするときに必ず国際化があるんだろうとか、トランスナショナル的な動きがそこに付随するんであろうとかを前提に考えがちなんですけども、必ずしもそうでなくて、例えばネイションの中で、もしくは国という単位の中では都市化したり、またそれ以上越えないということもありえるという事なんですね。で、その中でアーティストとして活動していく上で重要なのは、自分が活動の中で問いかけていく政治的な考えや問いと向き合うときに、どういう地理的な地平というのを自分が描くのか、どういった地域を自分の中で設定していくのかということです。例えばソーシャル・インスタレーションの芸術祭の地域性というのがいわゆる東南アジアのASEANの国という地域性とは全く別のものでした。日本/韓国/台湾といった東アジアの国のアーティストも参加していましたし、オーストラリア人もヨーロッパ人も参加していて、それがチェンマイの芸術祭特有の地域性であった。私たちは外交的な理由から、もしくは政府、国というレベルでデザインして作られる、例えば ASEANといった単位からいかにそこから出て、自分たちなりの地域性といったものを定義していけるか、ということが問われていると思います。そして90年代というのは、まさにそれが活発化して顕在化した時期だと思います。

 

 

質問者1:

 そのトランスナショナルということについて、例えばインターネット空間のようにそもそも国境がない、そういった空間がある中で新しいビエンナーレの考え方も求められてきて、そのことについてどう思うか聞きたいんですけれども、通常ビエンナーレというものはテーマがあってそれぞれの国から、もしくは地域から参加していて、自分のスペースが与えられる中で何かする、そこからは動かないというのが基本だと思うんですけども。今新しいビエンナーレの形としては、例えば時期としては決まっていてその時期の中では誰がどこからきて何をしてもいいということになっていて、場所の確保も自分で行うことになっており、場所がないときにはサポートが得られる。それはなぜかバスク地方が出資しているという、そこも国を越えた不思議な構造になっているんですけれども。そういった新しいビエンナーレについて何か意見があればお願いします。

 

 David:

 ご質問ありがとうございます。バスク地方のことが出たので少し面白いなと思って、というのも、そういったいわゆる国という単位じゃない形である種の独自性や自律性を持って存在している地域というのは、私はすごく可能性を感じています。というのもこのヴェニス・ビエンナーレの中でアジアから様々な国、もしくは地域の単位で参加していますけども、例えば韓国や日本というのはすでに確立された地位を獲得していますが、それ以外のアジアの場所で、ヴェニス・ビエンナーレのなかで継続的に存在感を示しているのは二つの地域しかないと思っていて、それが台湾と香港なんですね。で、その台湾と香港というのはどちらも国としての地位の確立といいますか、国というフレームワークの確立ができていない。もしくはそうしない場所としてあって、国という単位を持たないということが実はそういった他との違う存在を可能にしている。そして、ヴェニスの中での存在感を示すというのを可能にしているんじゃないかと思う。ちょっと変な結び付け方かもしれないんですけども、そういった可能性というのがもしかしたら、バスクという地方のあり方にも関連しているのかなという風に思いました。例えばバンコクでも、今年6ヶ月間くらいの間に四つ続けて芸術祭が行われまして、その中のバンコクビエンナーレというのがまさに今お話くださったような、つまりキュレーションもない編集も一切なしで、参加した人が好きに参加できて、そしてあらゆる情報共有がネットベースの、特にWikiを使って行われるというビエンナーレの在り方です。で、国立、もしくは公立の枠組みは一切使わないということでやっていると。でそういった新しいビエンナーレの在り方や芸術祭の在り方というのは、私はとても歓迎したいと思っています。バンコクで行われたこの四つの芸術祭、三つがビエンナーレで一つはトリエンナーレということになっているんですけども、四つとも今年初めて行われたので、まだ本当にビエンナーレになるかトリエンナーレになるかやってみないとわからないですが。

 そういったイニシアティブがたくさん取られて行くのは非常に重要ですし、それはある種の楽観性、未来への期待というのを含むものだと思うんですね。で、それを同時にこれまでの流れからもいくと、90年代からの流れにも紐づけたいんですけども、つまりそういったデジタルのネットワークといったものの在り方を考えたときにも、そしてそういったものにまつわるアート界の反応、そしてこれからのアーティスト世代がそれに対してどう反応していくのか、ということを考えるときにも90年代と紐づけて考えるということが一番簡単な結び付け方だと思います。光州で最近私がキュレーションを行ったのも、光州ビエンナーレの展覧会の歴史について、そのビエンナーレ内で展覧会を行ってほしいというリクエストがあったんですね。で、光州ビエンナーレなんかはまさに、1995年から始まってますので、そういった現代性、同時代性に向き合いながらスタートしてそういった中で活動してきたものですので、つまりトランスナショナルやトランスローカリズムということ自体が物理的にも実現可能になった時代から行われているものであって、それがそういうふうにこれから可能性を広げていけるのかということ自体を考えるというのはかなり歴史認識の上でも重要なことだと思います。なので今の質問してくださったポイントというのは、トランスナショナル自体が実現可能になってからの歴史というものを考える上でも非常に重要なポイントだと思います。

 

 

質問者2(コメント):

 今光州の話が出たので韓国の状況について一つコメントします。1995年に光州ビエンナーレが始まりますね、では韓国がナショナルなモダンアートヒストリーをコンテンポラリーの立場から、ナショナルなモダンアートヒストリーをいつから作り始めたのか?実は近代美術史学会ができたのが1994年なんです。つまり国際社会に経済力を持ってコミットすることができ、トランスナショナルな実現ができるようになったときに、ようやく国民国家としての韓国の近代美術史がなんだったのかというのを考えられるようになったんです。今日のレクチャーを聞いていて非常に面白いと思ったのが国民国家的なものからトランスナショナルなものにいくのではなくて、その二つは行ったり来たりしている、非常に位置が入れ替わっていく可能性がある。70年代と90年代と今とで色々な関係が変わっているということもおっしゃいましたけど、そのことは非常に近代を考える上でも示唆的でした。韓国のヴェネチアビエンナーレのパビリオンについて、今ヴェネチアでは韓国と日本はエスタブリッシュされているとおっしゃいましたけども、ヴェネチアビエンナーレでパビリオンを建てたのも、光州ビエンナーレが始まったのと同じ頃、たったそれだけでしかないんです。そうすると、近代国家というのは、自分自身が自分自身を定義することができる意思だ、と考えると、韓国にとってその状況はトランスナショナルになり始めたときにようやくやってきた、と。それが面白かったです。

 

David:

 今お話くださったプロセスというのは、どの国家も一回は通過する、国家の成り立ちそのもののプロセスだと思うんですけども、でも光州でいうと、私が非常に面白いと思ったのは、そういった国際化であり、近代化のプロセスであり、トランスナショナルであると同時にトランスローカルでもあったということなんですね。つまり、ビエンナーレに参加したアーティスト達というのは必ずしも全員がキュレーションされて呼び寄せられてるわけではなく、何か政治的、外交的な理由から呼び寄せられているわけでもなく、本当に人と人との繋がりでやって来ただとか、この人とこの人が知り合いだったから始まったとか、そういった地域性が共存していて、それが非常に面白いなと思いました。私が展覧会を企画するにあたって、それまでの光州ビエンナーレのアーカイヴをリサーチする機会に恵まれたんですけども、そこでも面白かったのが、実は光州ビエンナーレという一つの確固たる一つの芸術祭という枠組みを持っていながら、光州ビエンナーレ自体がすごく草の根のアーティストランスペースのような性格を持っていたことです。というのも、初めから運営もうまくいっていないし、なんかいろんな事件が起こるし、アーカイヴもちゃんとされていないし、いろんな人がいろんな風に手をつけてしまってお金だけがたくさん有り余っている状態で、誰もそれをハンドリングできていない。そういうとすごく批判的に聞こえるかもしれないんですけど、それってまさに東南アジアのアーティストランのスペースだとかプロジェクトと、本当に同じ感覚というか。なのでそういうところですごくトランスローカル的な共通点というのはあるし、ただ同時におっしゃってくださったようなすごく古典的な意味でのグローバリズムの中における国家の形成という要素も兼ね備えていたと思うので非常に面白い例だなと思っています。光州ビエンナーレが始まった90年代中盤というのは、まさに韓国でグローバリズムが取り沙汰されて、活発に議論が行われていた時代だと思いますし、この当時の大統領のマニフェストもまさに韓国をグローバル化するといったことで政権が争われたりだとか、なのでそういったことを考えるとグローバリズムということだけを見てしまうとなかなか実りある議論にならないのですが、トランスローカル、もしくは今おっしゃってくださったような意味での国際化、インターナショナルということを考えていくと視点的にもより深いものになっていくのかなと思います。

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