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ラオスにいったい「美術」があるというんですか?

文:住友文彦

​(続き)

現代美術と工芸の共存

 

 もうひとつ、ラオスにおける伝統と現代の交渉についてとても興味い経験をしたので記しておきたい。ラオス国立芸術大学がもう一つの校舎を持っている古都ルアンパバーンに滞在した時のことだ。キュレーションを専攻する学生たちとは、2005年にここで行われた「クワイエット・イン・ザ・ランド」という展覧会について調べていた。これはニューミュージアムのキュレーターだったフランス・モリンがシェーカー教徒の共同体、サルヴァドル(ブラジルのバイーア州)に続いておこなったプロジェクトのひとつで主要な事業としてルアンパバーンの国立博物館で2007年に展覧会が行われた。白人女性キュレーターが選んだ土地には植民地主義的な目線を感じるが、実際に行われたことは何だったのか。ウェブには詳しい企画情報が残されているし、図録も手に入れた。しかし、私たちが考えたいのは、理念と国際的に活躍するアーティストの作品ではなく、来場者や地元のアーティストたちの反応を知ることを通して得られるのではないだろうか。私たちは当地の世界遺産登録に深く関わわった都市計画家でもあり「クワイエット・イン・ザ・ランド」の実現に深く関わったフランシス・エンジェルマンと、当時博物館側で中心的な役割を果たしたキュレーターのワンペン・ケーニャと会うことができた。著名な現代美術家たちが実施したプロジェクトと地元関係者との交流エピソードも満載だったが、とくに面白かったのはかつて王宮だった博物館に対して地元住民たちは王族の霊が棲んでいるという恐れを抱いていたという話だった。実際に王族は半世紀前までその広大な敷地で暮らしていた。托鉢で有名な街の信心深い住民たちがそう思っても当然かもしれない。伝統的な共同体が外へ向けて少しずつ開かれていくなかで、長年継承されてきた場所の記憶と外国から来たアーティストたちの造形物は混じり合い一体化し、おそらく過去を繰り返したい王制へのノスタルジーとその喪失、そしてそこを離脱する近代化の波との間で引き裂かれた経験を反復するものだっただろう。 

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 とくに興味深かったのは、ヴェトナムの旧知のアーティスト、ディン・Q・リーに紹介された、ニタコン・サムサニットだった。彼は綿々と伝統工芸の技を継承して王族に仕えてきた一族のもとに生まれた。そして社会主義政権の誕生とともに王宮を出て、長い間旧宗主国のフランスで生活していた。通称名をニットと名乗る彼がラオスに帰国したのは「クワイエット・イン・ザ・ランド」に参加するためだった。身を追われる立場ゆえにいまだにフランス国籍の彼は、大きく変わった人々の生活環境を見てそのまま故郷に棲み続ける決意をした。それは失われつつある伝統工芸の技術を受け継ぐための私塾を開設するためだった。公式な立場で教えられない境遇のため、型紙、ビーズ、刺繍などを使った文様の技法から楽器作りや修復技術まで、かつて王宮で継承されていた技術を自宅に通う若者たちに教えている。著名なホテルに作品を納入することで収入を得て、現代美術家とも積極的にコラボレーションをおこない、しかし今伝えないと永遠に失われる技術を伝えることに一番時間とエネルギーを注ぎ込んでいる人物だ。彼の身の上話を聞いた部屋は、椅子やカーペット、並べられた装飾品まで、彼が創り出した作品、あるいは集めた物が所狭しと置かれ、そうした技術と審美眼が凝縮した濃密な空間だった。

​ そして最後に記しておきたいのは、この交流事業に参加した学生たちは私と同じくラオスの美術に関心を持っていたわけではないが、各自が持っていた関心をもとに現地の学生と親しくなり、大学が設定した事業の枠組みを超えた活動をおこなったことだ。お互いの情報が欠落している関係は、偏見や非対称な交流をつくりだす。そこから積極的に知らない文化のなかに踏み込むことは自分自身の見方を確実に変える。

 その成果と言ってもいい学生のレポートを以下にいくつか掲載する。少しだけ概況を記しておくと、まず市内のギャラリーだが、国立芸術大学が市内に持っているギャラリーは木造高床式の伝統的な建築様式を使っていて、1階部分で卒業生を含めた代表的な画家たちの作品を扱っている。2階部分は企画展示や他の催しにも貸し出しているようだ。民間では、オーストラリアで法律を勉強したあと、親が始めたラオギャラリーを継いだミスーダ・ヘウンスックオンと会ったが、彼女は教育の課題に取り組みながら障害を持つ人たちの作品を扱う活動へシフトさせていく考えを持っていた。他には外国人も運営や活動に参加しているアーティストランスペースのI:cat GalleryとMask Galleryがあり、映像なども使った現代美術の作品が展示されている。また、成功した画家が自宅で作品をお披露目して販売したり、国外のギャラリーを通して作品を販売することで収入を得ている例を見聞きした。ラオスで成功しているアーティストたちは、地元コレクターを相手にするだけでなく、タイをはじめ、ベトナムやシンガポールなどを行き来して、ギャラリーやキュレーターたちと関係を作り上げていくことで国際的な認知を得ているようだ。

 私たちの交流事業のパートナーだったスーリヤ・プミヴォンはアニメーション作家で、彼が教える映像制作をおこなう研究科には英語や日本語を扱える学生が複数いた。ジャンルのヒエラルキーとしては西洋的な絵画や彫刻が学科として主要な位置を占めているようには見えるが、現代の文化に対応する感性や能力を身につけているのはパソコンやスマホを自由に駆使し、映像表現に関心を持つ若者だ。その後、彼らの関心を反映させる事業をおこなうため、2度の渡航とラオス国立芸術大学の招聘を経て、ラオスでまだ重要なアーティストとして紹介されていない人物の物語をアニメーションでつくるワークショップを両校の学生たちがおこなった。詳しくはレポートを読んでほしい。

 私たちは現代のグローバル化の波にのまれようとしているラオスで、植民地化と冷戦体制が深く刻み込まれた社会でアカデミーと資本主義の赤裸々な姿と接し、芸術の分野で新旧の技術が生活とどのように結びつき、失われつつあるのかを知った。私は結局、西欧近代が作り出した「美術」とは出会わなかったのではないだろうか。それは、そこかしこに姿を現す気配を持っていたが、ついに明確な輪郭を現わすことがなかった。だからこそ、私たちはこの国に学ぶものがまだまだ多くある。

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