忘れないこと、覚えていること
文:タニグチ アスカ
序
夏の広島市に立ち寄るのは、約10年ぶりのことだった。血縁者もおらず、東の備後地方に住んでいた私にとって市内は遠い。そして被爆地「ヒロシマ」はもっと遠い。県外の人は「広島県民ならば同じ記憶を共有している」と思われるかもしれないが、同じ県民だからこそ気後れすることもある。地方もいろいろと複雑かつ繊細なのだ。
しかし留学生も含めた研究室での探訪が私を不思議な立場に追いやる……「広島で過ごした自分にしか感じられないこともあるのかもしれない」わずかな期待と自身の広島人アイデンティティが大きくなるさまを感じながら、まずは下瀬美術館に向かった。
下瀬美術館
オープン直後から美麗な建築が話題になっていた下瀬美術館は、山口県に隣接する広島県大竹市にある。1時間に3本ほどしかない山陽本線に乗って、途中でバスに乗り換えた。バス停からショッピングモールを潜り抜け、10分ほど歩いていると急に陸の終わりが見える。美術館は半分海に乗り出すようにして建っていた。いわゆるホワイトキューブのようなホール部分と、海に浮いているような可動式コンテナ8基、それからエミール・ガレの名前を冠した庭で構成されている。窓の外に横たわる瀬戸内海でできた青色の帯と、館内フロントの暖色ライトがコントラストを演出していた。ガラス一枚より心なしか遠くみえる海は、とても綺麗だった。
企画展は2種類。「INSECTS×SIMOSE—昆虫アートの現在地」は昆虫を制作のモチーフに使う作家たちを一挙紹介する展示で、「被爆80年特別企画 HIROSHIMA2045 過去と現在を未来に繋ぐ」は戦後80年に合わせた展示であった。
「INSECTS」はもともと銀座のギャラリー SASAI FINE ARTSで定期開催されているグループ展である。今回は下瀬のエミール・ガレのコレクションと混在して見せる企画となっており、展示には通常のホワイトキューブが使用されていた。大きな特徴だったと思うが、作者の名前とともに作者本人の発言と思われる文言が大きく壁に貼ってあった。一文字が4センチ四方ほどの大きさだ。壁に囲まれた空間には作品が入ったクリアケースが乱立している。どの作品がどの作家のものなのか、テキストの領域と一致しておらず、全体的に不親切に感じた。機能性を欠いているし、作家本人の発言を文字で貼って、なにがしたかったのだろう……腑に落ちなかったが、レポート執筆のために思い返してみたら、雑誌や図鑑のような紙面媒体と実空間の融合を目指していたのかもしれないと思った。雑誌や図鑑の紙面上で写真が使われている部分に作品の実物を使っているような。革新性はあるが、作家の人物を知るには足りぬ文言ばかりだったため有効かはまだわからない。
可動式コンテナの展示室を用いて行われた「被爆80年特別企画 HIROSHIMA2045 過去と現在を未来に繋ぐ」は共感できない部分が多い展示だった。祖父―孫の関係にある2人の写真家がそれぞれレンズに収めた現在の広島の写真と当時のヒロシマの写真を、広島出身のアーティストがコラージュ作品にしていた。「アートを通じて今一度ヒロシマを語り継ぐことについて考えるきっかけとなれば」とホームページには記載されていたが、過去と現在の写真を切り刻んでコラージュする作品からはあまりそのきっかけが生まれていなかったように感じる。展示空間には作品を紹介する映像が用意されていたが、それが祖父と孫の関係を強調するあまり作品が軽薄に映ったということも考えられる。縦に細切れになった町並みを交互にストライプ状に組み合わせることで現在と過去を補完させることが目的なのだろうが、そのあいだに存在する無数の「現在だった瞬間」を無碍にされているようで悲しい。もし過去と現在を行き来して紡がれるのが「語り」であると示したかったのであれば、もっと適した方法があるのではないだろうか。わからない展示の場合、自分の知らない前提や考え方があると思って見るようにしているが、眉間の皺は最後までそのままになった。
下瀬美術館の帰り、とんでもない豪雨に見舞われた。電車の車窓からみえる瀬戸内海は暗く島々の影が黒い。さっき遠く見えたのは天気が悪くて全体的に彩度が落ちていたからかもしれない。
平和記念公園
2日目は朝から平和記念公園に向かう。平和記念資料館は、リニューアル後初めての訪問だったので道中昔のことを思い返していた。中学生で訪れたころ資料館といえば「結構グロテスク」と聞いていた。当時、等身大の蝋人形に再現された焼けただれた皮膚を見るのが辛くて展示室を出ると、ロビーに人目を憚らず涙を流すアメリカ人の女の子がいたのを覚えている。そういうことばかり考えていたため路線バスの車内で気もそぞろになり、せっかく調べた停留所のひとつ前で間違って降りた。川沿いを少しの距離歩く。朝だからか川の近くだからか、光があふれて空気がみずみずしい。向こう岸をみていると、原爆ドームの輪郭が影になったり光になったりしていた。原爆ドームを見るたびに、原爆が落ちる前の「広島県物産陳列館」を知っている人にはあれがどうみえているのだろう、と思う。存在の意味が変わってしまうことは、個人の記憶にどう作用するのだろう。

約10年で館内の印象は随分変わった。冒頭の部屋にあった実物大の原爆模型は撤去され、代わりに爆発寸前から爆発後までの様子を再現した映像が町並みの模型にプロジェクションマッピングされている。映像は自在にフォーカスを操りながら爆破の衝撃と風速をよく伝えるものに仕上げられていた。大部屋からは怖かった蝋人形が消え、亡くなった子どものエピソードが追加されていた。遺留品と、その子自身が語ったという言葉と写真。以前より暗くなった室内に垂れ下がる顔写真入りの細長いバナーは、一つ一つが墓標のようにみえた。人の波のなかで来た道をふと振り返ると、来場者たちが一本の列を成して、ベルトコンベアのように目の前にやってきた犠牲者をしかと見つめている。ひどく不自然に感じられた。実際奥側のテキストのない展示物のエリアには、来場者はほとんどいなかった。気分が悪くなったから列から離れて、薄れかけている記憶のなかの展示室と重ねた。以前の部屋では物と人形と、見ていた私の存在が等しく、ニュートラルに見ることができていた気がする。リニューアルによって、原爆の恐ろしさを客観的に語る態度の維持よりも、個人が個別に原爆と向き合う空間を優先させたと理解できた。それにしてもエピソードを導入することで強調された悲惨さはなにを語れるだろう。私には中心に辿り着けないつるつるとした上滑りの感覚もあった。それは原爆について教科書を読むときも、授業を受けるときも感じていたものだ。資料館のメインの部屋を出たところの、原爆を科学的に説明し、落下するまでの経緯を書き連ねているパネルのほうが冷静に見れたかもしれない。
確かに原爆が実際にどのようなものだったか教え、伝える施設は必要だが、それならば同じくらい原爆という結末を引き起こした戦争の、日本軍の侵攻についても語ることを避けてはいけない。それを抜きにして語ることはお門違いなのではないか。上滑りの正体はこれか? 私はロビーで「つまり、この施設は誰の記憶を誰が展示しているんだ」と考えながら、韓国出身の学生とロサンゼルス出身の学生と折り鶴を折った。ふたりとも優しい。

自由時間をもらったので公園の敷地を散策する。マップを広げるとスポットは7つもあった。当時の訪問旅程は資料館のみだったから、これは10年前には気づかなかったことだ。原爆の犠牲者のうち2万人は朝鮮出身。「韓国人原爆犠牲者」の 碑を建てて弔っている。碑が建ったのは1970年。原爆が落ちたのは1945年。韓国と北朝鮮が独立したのは1948年だ。朝鮮人としての碑では駄目だったのだろうか。一人で参って目を瞑っているあいだ考えていると、その前に寄った追悼平和祈念館の各言語パンフレットが入ったラックに「ハングル/朝鮮語」と書いてあったのを思い出した。引っかかっていたのでスッキリしたと同時に、両方の表記を入れようと決めた人の気持ちを想像した。
韓国人原爆犠牲者の碑
広島市現代美術館
広島市現代美術館に行ったことがなかったから、こんな森にポツンとあるのを知らなかった。森といってもかわいいもんで、市内を見渡せる比治山公園の上である。もうお天道様もてっぺんなので鬱蒼とした印象はない。昨日の下瀬から一転、現代美術館の展示〈被爆80周年記念 記憶と物〉にはいい意味で考えさせられた。いままでの「物」を明確に主題にした展覧会のなかでは一番かもしれない。展覧会は「物」を主題にしているが、同時に「物の存在が媒介する事柄/暗示する状況」を示す構成になっている。冒頭の元内閣総理大臣・加藤友三郎の像にまつわる歴史、住民の動向を、像の製作を担当した彫刻家の他作品と共に見せるつくりには「こんな方法があったんだ」と驚かされた。加藤の像が一度作られたあと、戦争の資源不足のために回収された歴史。そのあと新しく作られた像は軍服ではなくシルクハットに燕尾服姿であった話。せっかく新しくつくったのに、さらに住民が軍服(大礼服)姿の像をもう一体作るまでの経緯。それらが像実物大の写真、当時の文書、「加藤友三郎顕彰会」の会報などと一緒に展示されていた。語り口や陳列の仕方は淡々としているのに、言外に別の解釈のレーンが立ち上がってくるし、物を「実体として実在させること」の意味を考えさせられる。おもしろいのは、冒頭に見せられる作品は彫刻・像、紙資料などのように物質的な側面が強く、後半にかけて映像・パフォーマンスアーカイブのように物質的な性質が少ない作品が増えていく点だ。展覧会の章を追うことで「物」の見方・考え方のレッスンを受けているようにも感じる。最後は小森はるか+瀬尾夏美の映像とテキストを用いた作品《11歳だったわたしは》で締められ、展覧会全体を通して作られていた「物」にまつわる1つの物語が、個人的なエピソードを語るふるまいにより出口で無数の宛先にわかれていくような終わり方だった。

「記憶と物」展示風景 毒山凡太郎《Public Recording》
それから宮島にリベンジした。本当は昨日訪問するはずが大雨で断念したのだ。腹が減ってはなんとやら、というので宮島口でぼれ美味しい穴子飯を食べる。高価だったからとっても大事に食べたけど、穴子の美味しさと同じくらい分厚いたくあんの豪華さに感動した。煎茶の余韻もそこらに急いでフェリーに乗る。降りてすぐ鹿の洗礼を浴びながら神社まで歩いた。次の予定があり私は宮島に20分しか滞在できなかったが、成人してから知り合った人たちと宮島を訪れたことが尚更感慨深かった。

宮島口から出航したフェリーの上から
忘れないこと、覚えていること
「つまり、これは誰の記憶を展示しているのか」という疑問は「誰の記憶を、誰に見せられているのか」という疑問でもある。
これは広島にいるあいだずっと考えていたことだった。「見せる物が同じであっても文脈が違えば見え方も違う」というのはよくいわれることだが、その「見え方の違い」は「文脈」という人為的に建設された物語の上に限られた結果ではない。実際は「誰の記憶として、どの立場で語るのか」という位相の変化による現象である。
過去に起こった出来事と時代の結びつきは不可分であり、時制や視点の切り替えによって別の次元に置かれたとき、出来事はそこで必ず変質する。その「変質」は出来事そのものの解釈の更新に現れたり、出来事と現状を無意識に比較する差異の関係性に根を張ったりする。その一部を私たちは「文脈」と呼んでいる。そのためどんなに努力しても、遺物や実物、作品を見せたからといってそれが示す過去をそのまま受け取ってもらうことは不可能だ。どこかに変質がある。その変質への意識の在り方――どれだけ誠実に責任を持って展示をつくることができるのか。それが私の考えていたことの中身だった。
原爆や戦争に関連する授業を人より多く受けてきた身として、エピソードや他人の痛みの生々しさによる情操教育は必要であると心から思う。悲惨さと衝撃は記憶に刻まれ、消えない痕跡になることは確かだ。忘れない状態をつくることはできる。しかしそのような感情的な側面の強調はときに「不信感」を作りだす。それは「私たち(鑑賞者・来館者)は信用に足らないのだろうか」という不信感だ。授業を受けた中学生の私や今年の私が感じていた“上滑りの感覚”の正体だと思う。私の8月28日の日記にはこう書かれている。
「私たちには悲惨さや痛みに覆われた『原爆』の姿しか知る権利がないのか? そのような悲惨さや痛みを分かち合えなければ『原爆を知っている』といえないのか。」
「原爆を語るためにほぼ全員が共感できる要素は『原爆の惨さ・非人道的な側面』である」
「それを短絡的に用いることは、訪問者を信用していないことの現れなのではないか。反論できない範囲に物事を留め、訪問者の経験をコントロールすること。結果的に訪問者の目くらましとなっているのでは」
“経験された記憶を語り継ぐこと”と、“記憶を引き継ぐこと”は同義だろうか。戦争を経験した世代から直接話を聞く機会が激減したいま、私たちは次の世代へ受け継ぐ準備をしなければならない。本人たちの記憶だけが本物。そんなわけはない。今年「物」や「物が存在する/物が残っているという事実」を意識した展覧会が、広島の他でも多くみられたことがその証拠だ。物を見せることで記憶を再生するための取り組みや試みの一端であったと思う。そしてそれが「記憶の在り方」自体を問い直す試みでもあってほしいと切に願う。
展覧会は、千差万別の個人を前に究極「物を見せること」しかできない。どう見えるかに気を払いながら、どのように見せるか趣向を凝らしつづけても、最終的にその見る経験の主導権は鑑賞者の眼のなかにある。だから日記に書き足した。「鑑賞者をもっと信じ、鑑賞者に信じてもらうための誠実さを身につけたい。展覧会も、施設も、人も」。10年ぶりの広島が私に教えてくれたことだ。
